2017年8月11日(金)『歌舞伎座8月1部、刺青奇偶(いれずみちょうはん)。玉兎、団子売』

一部は、刺青奇偶(いれずみちょうはん)。玉兎、団子売である。

刺青奇偶は、長谷川伸の代表作で、昭和七年、1932年に歌舞伎座で初演された、新作歌舞伎である。主人公の半太郎は、博打好きで、深川生まれだが、行徳に流れて、その日暮らしをしている。酌婦お仲が、川に飛び込んで身投げするのを、助け、ひょんなことから一緒に住み始め、南品川で所帯を持つ。ただ博打好きの性格は変わらず、貧乏生活のうち、お仲が、病気にかかり、お仲は、博打を止めるように懇願する。そして、半太郎の右腕に、サイコロの形の四角形に、中に対角線を一本引いた絵柄の刺青を掘る。死の直前にあるお仲のため、半太郎は、金を作ろうと、いかさま博打を仕掛け、見破られて、殴る蹴るの乱暴を受ける。しかし、ここに賭場の仕切る政五郎がやってきて、いかさま博打をしたいきさつを聞くと、サイコロで勝負しようと持ち掛ける。負ければ命を取られるが、勝てば、政五郎が持つ金を貰える。のるかそるかの大ばくち、半と言って、半太郎が勝負に勝ち、政五郎の持つ、大金を掴んだ。そして、女房のお仲の元に走る処で舞台は終わる。いきなりの終了なのだが、ここで終わるのは、金を持ってお仲のいる我が家に帰ると、すでにお仲は死んでいると言う想定を、皆知っているからかもしれない。

泣かせる芝居である。博打好きな半端な男と、酌婦というから、半ば売春婦の女との、意外な出会いがあり、幸の少ない二人が、肩寄せあって南品川の、漁師町でひっそりと暮らす。半太郎は、博打をスパッとやめて、真面目な生活をする、のではなく、やはり博打が好きで、好きで、しょうがない男である。一方のお仲は、重病の床についていて、いつ死ぬか分からない。博打を止めてと、半太郎の腕に、サイコロの刺青をするが、半太郎は、最後の博打に打って出て、いかさまを見破られ、瀕死の重傷を負う。ここに親分の政五郎が出てきて、いかさま博打を何故したのかと問うと、半太郎は、女房を、せめて所帯道具がある部屋で、死なせてやりたい、と答える。この辺の言葉に、半太郎の、お仲への強い愛情が溢れて涙を誘う。最後に、親分の政五郎が、半太郎の命と、自分の持ち金をかけて、勝負しようと、切りだす。普通なら、いかさまをした人間は、簀巻きにして、川に流すのが、定法である。しかし、政五郎は、半太郎に最後のチャンスを与える。この政五郎は、ヤクザの親分だろうが、気持ちの優しい、情に溢れた人物として描かれる。日本人が好きな、まさに情の世界だ。ここも泣かせる場面だ。政五郎を務める役者は、儲け役だ。 

 今回半太郎を中車、お仲を七之助、政五郎を染五郎が演じた。新作歌舞伎の世話物に、中車は、正面から取り組んで、良かった。博打好きだが、短気で、直情型で、愛に飢えている男を、突っ走り、体当たりで演じ、良かった。涙が自然に出てきた。舞台の演技に、感情を引っ張られる熱演だった。川に飛び込んで、半裸になる所も、中車の身体が崩れておらず、青年の体で、タフなヤクザ男を身体で感じさせた。

 七之助のお仲の、生活にやつれ、生きていくのが嫌になった、酌婦の雰囲気を、低音で、ぶっきらぼうな話し方で演じ、先に見込みのない、不幸な酌婦の特徴を、うまく掴んでいた。幸のない、もう生きていくのが、嫌になった24歳の女ざかりの酌婦って、こんなものだったのかという人物設定が、見事にまとまっていた。玉三郎なら、こんな美形が、酌婦で、男に騙され続け、自殺なんかしないと思ってしまうが、七之助は、福助を思わせる、あばずれ振りで、良かった。

 政五郎は、情けのある、貫禄のある親分と言うイメージだが、染五郎では、年齢的に難しかった。親分のイメージが湧いてこない。ここは、仁左衛門の様に、出てきただけで、情の厚い大親分と、観客に分かるイメージがないと難しい。儲け役だが、儲けられなかった。

 次に舞台は、勘九郎の息子、勘太郎が踊る、玉兎。清元舞踊である。今年二月に、初舞台を踏んだばかりの、勘九郎が、ぴんで、踊った。まあ、あどけなさを感じて終わり良かった。完成されていない、子供の芸に、高い金を払い、付き合いで、大きな拍手をするのは、私には気分が悪く、拍手を、あえてしなかった。でも、歌舞伎座の観客は、優しい。皆大きな拍手を送っていた。なん十年か後に、勘太郎ちゃんの玉兎、可愛かったと、私観たのと、子や孫に自慢するのだろうが、まあ将来自慢する事への先行投資であろう。歌舞伎はそんなものだ。

 最後に、勘九郎と、猿之助による、団子売。二人の軽妙な踊りで、楽しかった。