2017年5月17日(水)『国立劇場文楽、加賀見山旧錦絵』

国立劇場小劇場の文楽公演を見た。今回の公演は、豊竹呂太夫の襲名興行が行われているが、私が見たのは、夜の部、口上はない方の公演で、出し物は、加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)だった。

加賀前田家のお家騒動を人形浄瑠璃にしたものだが、現行の舞台は、二つの狂言をミックスしたものなので、筋に整合性はない。前半部が、又助が、謀反人を殺せと主人に言われて、その命令を実行する。謀反人を川の中で首を切って殺し、岩の上で大笑いをするのだが、実は命じられて殺したのは謀反人ではなく、加賀藩の殿様だった。又助住家の段で、この事実が明らかになるのだが、追い詰められて行く又助は、わが子の首を跳ね、主人の求馬の竹やりで刺され、切腹し、奥様が自害するという、又助一家の崩壊が綴られる筑摩川【殱熊川】の段と、又助住家の段。後半は、局岩藤に、中老尾上がいじめられ、草履ではたかれると言う恥辱を受け、自殺し、その敵を尾上の女中のお初が討つと言う、おなじみの物語である、草履打ちの段、廊下の段、長局の段、奥庭の段が演じられた。後半に求馬は登場せず、前半と後半で、物語りはクロスせず、全く別物の展開となっている。川の中での、水練、馬が川に入っていくシーン、首を切り、謀反人を成敗したと高笑いする又助、見せ場はいくつもあり飽きない。又助住家の段で入り、実は又助が殺したのは、謀反人ではなく、殿様であった事が、分かり、又助は追い詰められていく。この辺の追いこまれ方は、仮名手本忠臣蔵の勘平のようで面白い。この段は、中、奥と別けられていて、太夫も異なるが、奥を担当した呂勢大夫の声量が大きく、緩急自在の語りに、眠い目が一気に正気に戻り、劇の中に入って行った。太夫の語りで、目が覚めたのは不思議だが、これは義太夫の太夫の実力なのだと痛感した。加賀藩がどういう風にして、武家集団が構成されていたか不明だが、殿がいて、直々に複数の家来がいて、その家来にも、その家の家来がいるという構造になっていて、家来の家来は、殿様を御目通りする事もないから、家の主人から、謀反人を殺せといわれ、顔を知らないから、本物の殿様を暗殺してしまう悲劇が生まれたのだと思う。又助一家は、本人、妻、子供が一気に死に絶える。大悲劇なのだが、又助の主人求馬は、無事に帰参がかない、目出度し目出度しとなる。今の視点で考えれば、理不尽だが、江戸時代は、配下に悲劇があっても、主筋が無事ならば、それでハッピーエンドになるという時代性が、うかがえるが、辛い。

 後半の岩藤が、尾上をいじめ、草履で殴ると言うシーンはおなじみなのだが、尾上が、謀反人一味の文を拾ってしまったので、岩藤が、尾上を虐めるというのだが、文を拾ったシーンがないので、何で岩藤が、尾上を、嘲笑し、言葉責めにし、草履で殴り、短刀まで抜いて、責めかかるのか、分からなかった。又岩藤の虐めで、なぜ尾上が自殺しなければならないのか、今の時代では、分からない。辱めを受けると、自殺すると言う、江戸時代の考え方、常識が、いまでは理解できなくなったいい例だ。

 岩藤に尾上が直接殺されたのなら、お初の復讐も成立するだろうが、なぜ、お初が岩藤を殺して仇を討つのが敵討ちになるのかも、良く分からなかったが、敵討ちは、親を殺された場合に、その敵を討つと言うのが本来で、忠臣蔵以降、主人の仇を、家来が討つのも、仇討と考えられるようになった時代背景が、分かったようなで気がした。江戸の当たり前が、今の時代では、謎になっているということだろう。。

 まあ筋は、合ってない江戸時代の芝居や文楽だから、鷹揚にみて、義太夫の語りの素晴らしさ、三味線の、心の動きをなぞって演奏される音色の素晴らしさだけで、十分であろう。太夫の語り、三味線の繊細さと迫力を感じた今日の舞台だった。