2017年1月3日(火)『新橋演舞場1月興行、市川右團次襲名興行夜の部、源平布引滝、口上、しころ引、黒塚』

 正月も既に3日、今日は、新橋演舞場の右團次襲名披露興行を見に行った。

 新橋演舞場の一月興行は、市川右近が、市川右團次を襲名する興行だ。右近は、二代猿之助門下として、高校生の頃から歌舞伎の世界で活躍し、猿之助の相手役、時には主役を任せられることもあった。21世紀歌舞伎組の中心人物としても活躍してきた歌舞伎俳優である。

私の疑問は、何故、右近の右團次襲名披露興行を、歌舞伎座ではなく、新橋演舞場で行うのかという事である。去年も、芝雀、芝翫の襲名興行は、歌舞伎座であった。ではなぜ、右近も、歌舞伎座で襲名させないのだろうか。猿之助の初代は、市川団十郎の弟子であり、その後大活躍して名前を大きくしたが、あくまで市川宗家の弟子筋にあたる名跡である。市川宗家は成田屋、猿之助は澤瀉屋で屋号が違う。時代は平成に変わっても、宗家と、弟子筋の関係は変わらず、弟子筋の襲名は、歌舞伎座では行わせないという松竹の方針が、どこかにあるのであろう。そういえば二代目の市川猿之助の襲名披露興行も、新橋演舞場だったし、現三代目の猿之助襲名も、歌舞伎座が建設中という事もあったが、やはり新橋演舞場であった。猿之助でさえ、新橋演舞場で襲名したのだから、その猿之助で弟子である右近の右團次襲名も、新橋演舞場で行うのが当たり前と、松竹は考えているのだろう。まったくもって、松竹の方針は、時代錯誤としか思えない。実に,くだらない方針である。 

猿之助の芸は、老優に負けていない。いや、もう歌舞伎役者のトップクラスの実力を持っている。右近も、台詞術の力強さ、顔の大きさ、派手さも、歌舞伎の世界でなくてはならない存在になっている。その右近の右團次襲名興行が、何故新橋演舞場なのか、私には、不思議でならない。

それでも、右團次襲名には、海老蔵、猿之助が揃った。左團次は、歌舞伎座に出ていて、口上に出られない。梅玉が、紹介の司会役を担当したが、猿王は、舞台に上がれなかった。時の流れの恐ろしさを、強く感じた。誰よりも出たかったであろうし、師匠として舞台でお祝いの言葉を述べる義務があったと思う。二代目猿之助を中心に、新橋演舞場を舞台に、大活躍した澤瀉屋一門、その盛衰が頭をよぎった。二代猿之助が病に倒れ、自分の後継者として、一時は猿之助を継がせることも考えた右近が、結局、名前を継ぐのではなく、弟の段四郎の息子亀治郎が猿之助を継いだ。これも松竹の方針である。集客力の違いを言われたら、もう何も言えない。段治郎、春猿は新派に出て行った。猿之助の弟子の切り売りが行われる、その中で、右近は、右團次を襲名した。屋号も、澤瀉屋から高島屋にと変わった。澤瀉屋の解体劇を、見ているようで、一抹の悲しさも感じた、舞台上には、海老蔵、猿之助と、今後の歌舞伎を支える、重要な二人が揃ったが、心の中では、非常に寂しい襲名口上であったと受け止めた。

 ただ舞台は、充実していた。最初が、源平布引滝、義賢最期で、海老蔵が義賢を務めた。この芝居は、義賢の戦闘シーンと、勇壮な最期が眼目の芝居で、海老蔵が、目を大きく見開いて、悲壮感たっぷりに演じていた。義賢と小万(笑三郎)との別れのシーンは、奥さんが病気で闘病している海老蔵の実像と重なって、涙が出た。この芝居は、かつては仁左衛門、最近は愛之助で観ることが多い芝居だが、海老蔵の美形の顔が、血で濡れ、ぎらっとした目玉に血管が浮くような、悲壮感たっぷりな顔となり、悲劇性を増していてよかった。右団治がやっても良かったのではないかと思った。

 二幕目は、口上、右近が右團次、息子が、右近を襲名した。可愛い顔で、将来が楽しみである。口上も、立派に勤めた。

 三幕目は、河竹黙阿弥のしころ引(しころびき)はっきり言って、襲名披露興行の演目としては弱い、兜のしころを引き合うというそれだけだ。音吐朗々とした右團次ならではの演目は、他になかったのか、相手が梅玉では面白くなるはずがない。

 最後が、猿之助、渾身の黒塚、ワンピースの少年が、老いた鬼女を演じても、全く違和感がない。鬼女が改心しようとして、薪を取りに行くのだが、部屋を覗かれ、殺人者としての旧悪がばれ、鬼女になるというストーリーである。猿之助の芸が、凝縮した芝居に、充実感を感じた、歌舞伎座より、圧倒的に熱があり、面白かった。