鈴木桂一郎アナウンス事務所
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歌舞伎劇評2025
2025/9/2(火) 「菅原伝授手習鑑、車引、賀の祝、寺子屋」
松竹創立130周年という事で、今年は3月に仮名手本忠臣蔵の通しを上演し、今月九月は菅原伝授手習鑑、来月は義経千本桜が予定されている。通しと言っても、芝居の初めから終わりまで全部上演する訳ではなく、昼の部が加茂堤、筆法伝授、道明寺、夜が車引、賀の祝、寺子屋と、菅原伝授手習鑑の中から、みどり公演で取り上げられる演目を、系列的に並べただけの通し風の公演である。菅原伝授手習鑑の中の、美味しい芝居をピックアップして並べた公演と言える。
さて、夜の部は、車引、賀の祝、寺子屋と、それぞれ独立して度々公演される幕が並んだ。
車引は、桜丸を左近、梅王丸を染五郎、松王丸を幸四郎、時平を白鸚と、高麗屋三世代が揃った。開幕と同時に神社での芝居を表わす、はなやぐらが始まると、深編笠を被り、梅王丸が花道を、桜丸が上手から出てくる。クロスして正面に座る。松王丸が荒事、桜丸は和事で演じるのだが、松王丸を強く見せるために背の高さを変え、背の高さが違いすぎ、バランスが悪い。立った時も背の高さが違いすぎ、つまり染五郎がでかすぎ、左近が小さすぎて、バランスを欠いた。染五郎は、声に力があり、見得もきっぱりとして、荒事らしさを出していたが、声の勢い、エネルギーの燃え方が薄い感じがした。左近は、白塗りにむき身隈がのり、完全に美少年のイメージ、袖と裾の赤の襦袢が奇麗で、見得も和事らしく美しかった。染五郎と左近の演技は対象的で、荒事と和事の振り分けが良かった。左近は、桜丸を、意識して柔らかく演じたが、桜丸は、女のように線の細い役ではないので、めそめそしすぎては駄目だと思う。桜丸は、手を前にもってきて、梅王丸は手を膝の上に置いて構える、脚も桜丸は揃えて座り、梅王丸は脚を広げて座る。刀も梅王丸は緑、桜丸は白色で対象的だ。梅王丸は、房付きの前垂をつけていていかにも荒事風の誂えである。傘を脱いで決まるところは、桜丸が笠を上に構え、梅王丸は横に引いて持ち、親指を立てての荒事の見得で決まった。梅王丸の六法で幕が閉まり、幕が再び開くと、吉田神社の前となる。牛車は新しい車で、車輪止めが大型になっている。いつもの牛車と違っていた。桜丸の白塗りの顔に、赤で剥き身隈が映えている、左近の美少年ぶりが目立った。乱闘の後、いよいよ幸四郎の松王丸が登場、力強く演じるのかと思ったらさほど迫力はない。松王丸は白い襦袢、桜丸梅王松は赤の襦袢が対象的で、敵味方が良く分かる。さすが幸四郎で、大きくて立派、時平への忠義ぶりを、たっぷり見せた。この辺りは、松王丸は、あくまで主人は時平なので、主人に忠義を尽くす演技は当然だと思う。
三人が争う中、牛車の中から時平が登場、白鸚初役の時平である、顔は不気味な青色の隈、公家荒れで、これまで見た時平の中で、一番迫力があった。これで、高麗屋3世代が揃って、舞台が締まって、場内の拍手が大きかった。
続いて賀の祝い。舞台中央に、白太夫の住まい、上手に、桜、松、梅が植えられている。
白太夫は又五郎、70歳のお祝、賀の祝いには、三つ子の子供と、その嫁たちが揃うはずだが、桜丸だけがなぜか姿を見せない。桜丸女房八重は、70歳のお祝に、三方をプレゼント、梅王松の女房は、松、桜、梅をデザインした扇をプレゼント、松王丸の女房は、頭巾をプレゼントした。白太夫への贈答品が、この後の芝居に絡んでくる。
松王丸が最初に父の家を訪れ、ついで梅王丸が到着し、喧嘩が始まる。まるで子供の兄弟喧嘩のようで、米俵を使った喧嘩は楽しさもあり、喧嘩の途中、白太夫が愛していた桜の枝を折ってしまう。
このあと、梅王、松王、それぞれ、父の白太夫の手紙を渡し、その場で読んでもらう、梅王丸は、道真が流された九州まで行きたいという願いだが、それは俺の役目、お前は菅丞相の奥方の行方を探せと厳命する。松王丸は縁切りのお願いで、自分は時平の家来なので、菅丞相派の親子兄弟とは縁を切りたいという内容。白太夫は、丞相につかず、時平につくとはとんでもない不忠者め、この人外めと言い、縁切りを許し、早く出て行けと言う。又五郎の白太夫は、全体に大人しい演技で、家長と言う重みに欠ける、もっと堂々としていいと思う。
松王丸、梅王丸が家を出ると、いよいよ桜松が、後ろの納戸から登場、桜丸は女形の時蔵が演じた。時蔵の進退窮まった、心は、もうすでに死んでいるような、寂しげな雰囲気がいい。斎世親王と苅屋姫の逢引きを手伝ったような浮ついた雰囲気は消え、菅丞相が大宰府に流罪になった責任を強く感じて、親が何と言おうと、既に切腹を覚悟して、既に穏やかな気持ちになっているようだ。時蔵の白塗りの面長の顔が、ニンにぴたりである。
神社に八重と一諸に行き、桜丸の命を何とか助けたい白太夫は、神社で、梅王丸の女房からもらった扇子で籤引きをして、一番最初に桜を出たら桜丸の命を助けよとの神意だと考え、1本を選ぶが、桜ではなく梅の模様が出た、もう一回引くと、今度は松が出て、神に見放されて、がっくりとして家に戻る。更に悪い事に、家に戻ると、桜の木が折れていた。これで桜丸の切腹は神意にかなう事になり、切腹が決まってしまった。父白太夫の思惑は思惑として、菅丞相の太宰府の追放の原因を作ってしまった訳で、桜丸は死ぬ運命だったのだと思う。
でも桜丸としては、仕えていた斎世親王に頼まれて、苅屋姫を牛車に連れて行ったので、本来の責任は、斎世親王にあるはずで、丞相失脚の原因は、斎世親王と、苅屋姫が、丞相に許しを得ないで、逢引きした訳で、丞相失脚の責任を桜丸だけにかぶせるのが可哀そうな気がする。やはり封建時代、責任は下々の人間に押し付けられるという事か。
桜丸は結局運命を受け入れて切腹するのだが、桜丸は、斎世親王の舎人であり、牛の世話をし、牛車の運転手で、武士ではない思うが、武士の扱い。車引で、梅王丸とともに、二本差しで、時平を襲う訳で、もう完全に武士なのだろう。勘平の切腹は、切腹ではなく、腹切と呼ばれているが、桜丸は切腹となっているので、作者は、三兄弟は、武士と扱っているのだと思う。父白太夫の鐘の介錯が、切なく、辛く、痛切だ。
最後の幕が、今日の眼目の寺子屋。松王丸松緑、源蔵幸四郎、戸浪孝太郎、千代萬壽、
涎くり与太郎を男女蔵、涎くりのくだりは長すぎて飽きる。男女蔵に見せ場を作るための工夫だろうが、机の上に立たせるのは時間の無駄。この役は、中堅の人気者が演じるご馳走役だが、男女蔵ではご馳走にならないと思う。
萬壽演じる千代が、息子小太郎を連れて寺子屋に入り、息子を預けていったん寺子屋を離れる時の悲しさが、舞台から溢れてくる。小太郎役の種太郎が、可憐で可愛く、涙を誘う。幸四郎の源蔵が、絶望感から、陰鬱な表情と足取りで、花道からやってくる。家に入って、山鹿育ちの猿のような子供ばかりで、秀才の代わりになる子供はいない、小太郎が挨拶に近づき、チラッと見た後、もう一度しげしげと小太郎を観た時の表情がクールだった。これで秀才の代わりができた、という驚きと喜びがもっとあった方がいいと思う。菅秀才の身替りになりそうな顔だ、よし、と言う気持ちが足りない。
松王丸の、松緑の最初の出は重かった。偽りの病を見せるためか、咳き込んで、とにかく暗い。今は生きているだろうが、間もなく身替りで死ぬことになる、我が子の運命を受け入れての暗さだと思うが、動きが、まるで人形浄瑠璃の人形のように大きく、大袈裟に動くので違和感があった。もっとナチュラルでいいのではないかと思う。秀才の首実検の際、松緑の目が、らんらんとして大きく開き、目の中に赤い色をいれ、憔悴したように見せて、悲しみの大きさが良く分かった。松王丸は、桜丸を思い出した後に、大泣きするのだが、本当は桜丸にかこよせて、わが子を亡くした悲しみで大泣きするのだと思うが、この辺りの松緑の心が観客に伝わり名演だったと思う。
この芝居、源蔵が小太郎の首を討つまでは、源蔵夫婦の芝居、首を切った後は、松王丸の芝居になる。寺子屋に入ったばかりのよそ様から預かったばかりの少年を、いくら旧主のためだとはいえ、首を斬ってしまう。元主人の菅丞相の息子秀才を助けたい気持ちはわかるが、主人のためなら人の子を勝手に、身替りとして殺す事が、江戸時代は、是とされていたのだろうか。今なら絶対許されないと思うが、江戸中期、こうした考えが許されていたのかは疑問に思う芝居で、毎度毎度見終わった後に、何か理不尽な、怖い芝居を観てしまったように感じる。種太郎の又五郎の孫、歌昇の息子、種太郎が小太郎、秀之介が秀才を演じた。種太郎が可愛くて、結構。
2025/9/3(水)「菅原伝授手習鑑、加茂堤、筆法伝授、道明寺」
昨日に続き、今日は昼の部を観る。九月歌舞伎座昼の部は、菅原伝授手習鑑から、加茂堤、筆法伝授、道明寺の3本。仁左衛門が菅丞相を演じる。もしかしたら今回が最後の丞相になるかもしれず、目に焼き付けておこうと思った。
加茂堤、丞相失脚の原因となった場面。丞相の娘苅屋姫と、時の天皇の弟、斎世親王との逢引きを描いた一幕だ。桜丸を歌昇、妻の八重を新吾、苅屋姫を左近、斎世親王が米吉という若い役者で揃えた。桜丸と八重の、何とか二人の恋を成就させたいという、明るい気持ちが良かった。この後の悲劇につながる訳で、この幕は徹底的に明るく、恋に積極的で、色に溺れるの方が良い。牛車に二人を乗せると、桜丸と八重が、私たちもセックスしたくなったというおかしみが実に面白かった。左近と米吉の若いカップルが、ようやく牛車での逢瀬に持ち込み、セックスできると喜ぶはずだが、奇麗に見せすぎて、二人の恋愛が見えてこない、特に斎世親王の米吉が、つんと澄ましていて盛り上がらず。
筆法伝授で、いよいよ仁左衛門の菅丞相が登場,そこに座っているだけで、気品を感じさせるのはさすがである。座っているだけで、オーラを感じる役者は、玉三郎と仁左衛門しかいない。武部源蔵は幸四郎、筆法は伝授するが、勘当は解かないという、丞相の厳しさが凛としていて、有無を言わせない迫力だった。筆法伝授より、勘当を解いてほしいと願う源蔵が、痛々しかった。
道明寺は、丞相失脚の原因を作った娘苅屋姫との別れが痛切、一切苅屋姫を観ないのだと思ったが、チラッと3回は観た。天皇の命令による左遷なら、仕方がないと、諦めた丞相の気持ちが良く出た芝居だった。
2025/9/4(木) 「Bプロ、菅原伝授手習鑑、車引、賀の祝、寺子屋」
三日続けての歌舞伎鑑賞、歌舞伎座夜の部のBプロ、菅原伝授手習鑑から、車引、賀の祝、寺子屋を観る。
車引は、梅王丸が松緑、錦之助の桜丸、松王丸を芝翫が演じた。3人のバランスがとてもよく、今の時代ベストメンバーの車引だった。特に、松緑の梅王丸が、声量、きっぱり感、押し出しの強さ、単に強弱で台詞で言うのではなく、声のまとまりとして、その大きさを変化させ強弱をつけて台詞を言うので、梅王丸の怒りが、ストレートに出ていた。動きも力強く、これぞまさしく荒事の演技だった。錦之助の桜丸も、女々しさがなく、それでいてはんなりと、柔らかさをもって和事をみせて、荒事和事の対比が舞台に花咲いた。特に二人が同時に見得をするときの形が対象的で良かった。芝翫の松王丸は、押し出しに力感があり、まさに荒事の芝居。桜丸、梅王丸の二人に対して、松王丸一人であるが、力感はふたりのパワーに負けていなかった。松王丸の主人は藤原時平、堂々と時平の忠臣ぶりを見せた。3人揃っての見得は、力強く、また美しく、バランスが揃っていて、錦絵を観るようで、今日の車引だった。
続く賀の祝、ここでは役が変わり松王丸を彦三郎、梅王丸を萬太郎が演じた。2人の喧嘩が、まるで幼い兄弟げんかのようで、ひと時、重苦しい雰囲気を笑いで包んだ。彦三郎は時平に仕える誇りを胸に、無職になった梅王丸を馬鹿にし、梅王丸が、悔しさを正面からぶつけ、兄弟喧嘩になるが、桜の枝を喧嘩で折ってしまった後の、枝を折ったのは、お前だ、いやお前だというあたりの子供らしさが、場をなごさせた。2人が家を離れ、梅王丸は、桜丸が来ないので不安になり、様子を伺うため、家の後ろに行くと、いよいよ桜松の登場となる。桜丸は菊五郎。白塗りの顔を、斜め前を向いて、表情を変えずに座る。この後、何か恐ろしい事が起こる予感がする静寂な動きだ。すでに死を覚悟しているので、父白太夫が、神社に桜丸の命を助けるか、籤を引きに行った話や、八重のなぜ死なないといけないんだ、という訴えにも、全く動じず、丞相失脚の原因を作ったのは私だと、その責任を一手に引き受け、お詫びに死なねばならないという決意が、菊五郎の無表情の顔に隠れた固い決意が見て取れ、菊五郎の役者としての大きさを観た。菊五郎のもつ、寂しく美しい顔が悲劇をさらに大きくする。役者の顔の大事さを感じさせた。白太夫は歌六、父としては、桜丸の覚悟を知った上で、神意を探ろうと、神社に行き、松、竹、桜が描かれた扇子で、最初に桜を選べば、神様は命を助けるという神意と思い、選んでみたものの、二回とも桜を選べず、神の気持ちは、切腹やむなしと出て、その失意を花道の出で、しっかり見せたし、本舞台に来て、桜の枝が折れているのを観て、桜丸の切腹は、もはや決まってしまったと思う、その父の気持ちがリアルに出て、旨いと思った。今日の白太夫だ。介錯は、鐘でするといい、切腹前後に鐘を鳴らすが、初日に見た又五郎に比べ、鐘を鳴らす回数、そして正確に鐘を打たずに、あえて鐘をそらして鳴らすところは、白太夫の割り切れない悲しさがでて感動した、歌六の芸の工夫だと思った。父に願いの文を渡し、松王丸は勘当、つまり縁切りを申し出るが、父は怒って出て行けと叫ぶ、この辺り、先ほどの子供っぽい喧嘩の後なので、その雰囲気が消えず、時平に忠義を尽くしたいという表向きの気持ちだけが出て、なんとか丞相の役に立ちたいという裏の気持ちが出てこず、一方的な勘当の演技のように見られた。ここは、松王丸の苦悩を見せないと、この後桜丸が切腹し、これを家の裏に回り、様子を伺ていた松王丸が、桜丸に変わり、丞相に恩義を返さなければならないという決断に繋がらなかったと思う。桜丸が切腹して死に、松王丸に抱きかかえられ、白大夫が花道で、桜丸の遺骸を見つめるシーンは、彦三郎の、返り忠の表情に見えて、絵面に決まり、涙を誘った。八重は米吉だが、泣きすぎ。ただ好きな人が死ぬのではない、責任を取って死ぬ、自分にも責任の一端はある、それに対しての泣き方は、自分も死なねばならないという決意が必要で、ただ泣けばいいというものではないと思う。春は種之助、しどころがないので、ひっそりとウケの芝居、千代は、Aプロ、Bプロ通して新吾。三つ子の兄弟の奥方たちの、梅桜松をみての亭主自慢がいかにも惚れている感じがして、くすっと笑った。
寺子屋は松王丸が幸四郎、武部源蔵を染五郎、戸浪を時蔵、千代を雀右衛門が演じた。染五郎の武部源蔵は、役の年と、現実の年が離れすぎていて、演ずる上で不安をもって観たが花道からの出でも、本舞台でも、寺子屋の主人で、子供を教育する先生で、菅丞相から筆法伝授を受け、丞相の子供の命を何とか助けないといけないという宿命をおった中年の男性には見えなかった。声も暗く、終始うつむいて、低音で、大人らしさを出そうとしていたが、やはり無理があった。小太郎を観て、すぐ目を瞑り、再び小太郎を観て、あっと驚く、秀才の代わりの子が、進退窮まった今、天の助けか、新入生として、寺子屋に来た。この喜びが表情、姿に表れていなかった。役としては、父も演じている源蔵が、持ち役になるだろうから、これからに期待しよう。染五郎の父の幸四郎が、松王丸を演じた。松緑の松王丸とは、対照的に、あまり表情を変えない演技。我が子が、間もなく秀才のかわりに、首を討たれて死ぬだろう。その悲しみを、その白い、冷たい顔に隠しての演技だ。まさに侍の父としての覚悟の演技だったと思うが、やはり歌舞伎は、姿、顔、声で感情を表すべきで、わが子が死ぬのに、あまりに淡々として、冷たい親に見えた。エイっという掛け声で、首を斬られたと、分かった時は、後ろ姿で声を聴き、その後も表情を変化させなかった。ここで驚いては、見届けに来た春藤玄蕃に分かって疑われる。さらに最後の大泣きに繋げる演技かと思ったが、ここは多少の感情の揺れを見せて欲しいところだと思った。でもこれは評価が分かれるところで、あくまで私の意見だ。
同じ松王丸でも、松緑と、幸四郎の演技の違いを観ることができ、Aプロ、Bプロと分けた意味合いを感じた。同じ役を演じるても、役者によって違うものになる。千代の雀右衛門は、父とは違い、可愛い我が子が、なぜ殺されなければならないという思いが強く出て、涙を誘った。父も母も、忠義のためには、子の小太郎が死ぬのは、当然と演技されては、小太郎が悲しすぎる。
2025/9/9(火) 文楽(大阪)「恋女房染分手綱、日高川入相花王、心中天網島、曾根崎心中」
大阪に行き、国立文楽劇場で文楽鑑賞。今回は、3部制で、Aプロが恋女房染分手綱、日高川入相花王。Bプロが心中天網島、Cプロが曾根崎心中と言うプログラムだった。
Aプロの恋女房染分手綱は、大名家の乳人重の井と、生後別れ別れになった幼い息子との偶然の出会いを扱った作品だが、前後がないので、筋が良く分からない。11歳の子供はすでに馬子として働いていて、前髪もそり上げて、丁髷を結い、煙草も吸って一端の馬子である。とはいえ、まだ11歳、ひょんなことから実の母と知った馬方三吉が、母にすり寄り、母と言ってと甘える芝居だが、母は断固として拒否、周りの人にも伝えない。実に健気な芝居で、涙を誘う。
日高川入相花王は、安珍、清姫の物語。清姫の美しい顔が、ガブと呼ばれる、鬼の顔に一瞬にして変わるところが面白い。
Bプロは、心中天網島。妻子のある紙屋治兵衛と遊女小春の心中を扱った芝居。治兵衛ってとんでもない男だ。2人が心中しそうなことを察知した治兵衛の女房おさんが、小春に心中をやめて欲しいと手紙を書き、小春は、心中を思いとどまる。治兵衛は、小春が、侍に化けた兄に、心中はしたくはないと話すのを聞き逆上する。妻からの手紙がもとで、小春が心中を思いとどまった事を聞き、結局二人は心中する。しかし同じ場所まで来て、妻の手前、小春を刺し殺した後、自分は別の場所で首を括って自殺する。そこまで気に掛けるなら遊女と心中するなよと言いたい、後味の悪い心中事件である。治兵衛は、情けない馬鹿男の典型。曾根崎心中は借金を返さないといけないのに、借りた金を、友達に貸して、だまし取られ、それで遊女と心中するという物語。これも馬鹿な男だ。借金を返す必要が有り、金を借りたのに、友人にかして、あっさり騙され、遊女と心中を図る。なんで店を持つ大の大人が、遊女と心中するのか、親や親戚から、この娘と結婚しろと命じられ、子孫を作るためにやむなく結婚した。妻との間には愛情はない、子供を作ればもうお役御免なので、後は自分の好きに生きる。恋愛をしたい、愛する女が出来た、それが遊女だったということだろう。江戸時代の結婚制度の悲しい現実だ。