2016年12月8日(木)『歌舞伎コラム 仮名手本忠臣蔵の魅力』


 仮名手本忠臣蔵が、赤穂事件を題材にしたものであることは、当然のことながらよく知られている。元禄14年(1701年)3月14日、播州赤穂藩の藩主、浅野内匠頭が、江戸城松大廊下で、高家、吉良上野介に切りかかった事件が発端で、切りかかった理由には、諸説あるが、詳細は不明である。切りつけた浅野内匠頭は即日切腹、播州赤穂藩は改易、赤穂城も幕府に引き渡された。一方吉良上野介は、刀を抜かなかったので、喧嘩という事にはならず、一方的な被害者として、お咎めはなかった。武士の喧嘩は、理由はともあれ喧嘩両成敗になるはずだが、喧嘩両成敗には、ならなかったのである。赤穂藩の人間は、内匠頭の弟の浅野大学を立てて、お家再興を願い出たが、結局大学は、閉門に決まり、お家再興の期待はなくなった。最終的に、家老の大石内蔵助をはじめとする赤穂藩士達は、討ち入りを決意し、元禄15年12月14日、赤穂浪士47人が、吉良邸に侵入し、吉良上野介を討ち取り、主君の恨みを果たした。討ち入りには、47人が参加したが、寺坂吉右衛門は、討ち入り後に抜けて、46人が幕府に出頭し、大名家に、分散して預けられた後、幕府の判断で、全員名誉の切腹となった。吉良家も、赤穂浪士切腹の日に、吉良家を継いだ義周を、信濃高嶋藩にお預けとし、若くして義周が死んだため、吉良家は断絶した。刃傷事件当初は、お咎めなかった吉良家ではあるが、幕府は、結局赤穂浪士の討ち入りを経て、処分を訂正したことになる。喧嘩両成敗と暗に認め、後日に実行したのである。

 現代では、赤穂浪士は、吉良上野介の首を切り、主君の敵討ちをしたと、当然のように思うのだが、江戸時代は、家来が、主君の仇を討つ、敵討ちをするという意識はなかった。赤穂浪士の討ち入りが、仇討ちなのかどうかが、ポイントとして江戸時代、議論されてきた。この当時の仇討の考えは、親の仇を討つような、極めて近い親族に限られていて、「主君の仇を討つ」という事は、範疇に入っておらず、主君の仇を討つことが、敵討ちに入るかどうか、微妙だった。しかし、江戸の庶民の感覚では、主君の敵を討つのは、やはり敵討ちであると考え、赤穂浪士に拍手を送ったのである。幕府の中枢の考え方と、庶民の考え方の違いが明確にされ、一年少しで、幕府の考えは、庶民の考えに迎合して、修正されたのである。

そして、事件から、47年経った、寛延元年(1748年)8月14日、仮名手本忠臣蔵は大阪竹本座で、人形浄瑠璃として初演された。その年の12月には、歌舞伎に移された。二代目竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作である。初演以来大人気を博し、平成の御代まで、上演され続けている。仮名手本忠臣蔵は、一体どこが魅力なのだろうか?単なる敵討ち事件だからではあるまい。赤穂事件が現在でも、語り継がれている魅力を考えてみよう。以下羅列すると、

① 武士道が、過去のものになったと思われた元禄時代、忠義の武士道が復活した事を、江戸庶民が喜び、拍手喝采を送った。極めて珍しい事件だったのである。

② 本質的には、武士の喧嘩であり、喧嘩両成敗であるはずが、片手落ちで、討ち入りで吉良の首を取り、全員切腹にはなったが、吉良家も断絶となり、結果として、喧嘩両成敗を成就させた。武士の意地を見せた大胆な行動で、江戸庶民も、この点に拍手を送った。

③ 仇討ち物語ではあるが、吉良上野介を処分しなかったのは、幕府中枢であり、裏には、幕府への反抗、批判の行動に、拍手を送った。

④ 目標を果たすためには、命を捨てる、自己犠牲の精神、本物の武士道に感激した

⑤ 組織の名誉を守るための行動、藩主の名誉を守るための戦い、公共精神

⑥ 判官びいき、散りゆく者の美学、献身、勧善懲悪

⑦ 復讐を遂げたカタルシス

⑧ 以心伝心の日本人の特性に合う

⑨ プライドの再生の物語

⑩ リーダーの存在、

⑪ 波紋が波紋を呼び、思わぬ悲劇が増幅していく。塩谷家だけでなく、吉良家も悲劇に巻き込まれていくのだ、

こうした背景を持って、江戸庶民の心を掴んだ赤穂事件、これを人形浄瑠璃に写した仮名手本忠臣蔵も、大人気を博し、今日に伝わっている。その魅力はどこにあるのだろうか。

① 忠義とか武士道が薄れた世の中に、いきなり現れた忠義、武士道の復活の驚き

② 短慮の殿様の行動が、藩士に与えるあまりに大きな影響のすごさ

③ 短慮の殿様を持った家来の、複数の家族の崩壊の物語

④ 悲劇の連鎖

⑤ 藩の死、藩主の死、家老の死、家族の死、恋人の死、浪士の死、死に行く者の物語

⑥ 仇討ちを成功させた物語、一大プロジェクト成功物語

⑦ 藩主の愛、家老の愛、藩士の愛、腰元の愛、両親の愛、不埒な愛

⑧ 正義と悪の戦い

⑨ 密かな公権力への批判

⑩ 切腹

⑪ 非業の最後

⑫ 達成感

⑬ ラブアフェアーが引き起こした恐るべきミスの代償の大きさ

⑭ 艱難辛苦の挙句の成功のカタルシス

⑮ 明日は我が身と言う気持ちへの共感

⑯ バカ殿は、持ちたくない事への共感

こうした点を、仮名手本忠臣蔵では、上手く経糸、横糸に織り込んで、物語が展開して行く面白さが、江戸時代から、いまでも人気のある点だと思う。

私は、今回、歌舞伎と文楽で、全幕を通してみて、実によくできている作品だと思った。一番感じたのは、短気で短慮な殿様を持つと、時に家来は悲劇に見舞われる、という事である。社長が馬鹿で会社が潰れて、社員が離散するという今日の物語に繋がってくる。内匠頭が、刃傷事件さえ起こさなければ、播州浅野藩は、取り潰しされることもなく、藩士も幸せに暮らし、大石内蔵助も歴史に名前は残らなかったであろう。家老も含め、誰しも予想できない、刃傷事件を、江戸城中で、しかも朝廷の使者を供応している最終日に、内匠頭は犯したのである。何の恨みか、分からないが、吉良を突然切り付ける行動を取った内匠頭。短気、短慮と言われるが、殿中で、供応の最中の刃傷は、驚愕の行動である。しかも切りつけたのなら確実に殺せばいいのに、かすり傷程度のケガさせただけで、殺すことはできなかった。実に情けない、武道不心得者である。さらに、取り押さえられた時に、乱心と言えば、藩は取り潰しにはならず、家来も路頭に迷わなかっただろうが、「自分は乱心して、刃傷に及んだのではない」と、主張した。我の強い、一面が、ここにも現れる。こうした、短慮で、粗末で、粗忽な殿様を持ったら、藩士は悲劇だ。江戸庶民は、赤穂藩士は可哀そうだと思った事だろう。殿様は、何もしなくて、呑気で、馬鹿な位が、丁度良い、と思ったのではないかと思う。馬鹿殿の刃傷事件で、自身は切腹、家老の大石が来て、敵を取ってくれと、頼むが、大石自身は、ふざけんな馬鹿野郎、と心の中では呟いていたのではないだろうか。殿様の刃傷事件から、端を発した悲劇の連鎖が、家老、家来と、隅々にまで及ぶのだが、他人の悲劇は甘い蜜、であって、この悲劇の連鎖が、忠臣蔵の一番の面白い所だ。他人の不幸は、やはり蜜の味なのである。殿様が刃傷事件さえ起こさなければ、勘平とお軽が、水茶屋で、セックス三昧しようと、何事もなく済んでしまっていただろう。「色に耽ったばかりに」、と言う言葉も生まれなかった。吉良上野介も、高家の筆頭としてそのまま死んでいったであろう。若狭之助の家老加古川本蔵も死ななくてよかった。赤穂浪士の討ち入りは成功したが、結局討ち入りに参加した元藩士は、全員切腹して死んでしまった。次々に悲劇に見舞われる人々を、江戸の庶民は、見ていて、可哀そうと思う反面、武士でなくてよかったなあと、心から思ったのではないか。まさに人の不幸は、不幸に巻き込まれる人が多いほど、蜜の味は、一層甘くなるのである。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

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