2016年12月6日(火)『国立劇場文楽、仮名手本忠臣蔵一部を観る』

 国立劇場の文楽の、仮名手本忠臣蔵の第一部を観た。大序から、六段目までが一部となっていた。私は、あまり文楽を観てこなかったので、同じ、国立劇場で10月から三か月かけて、通しで上演されている歌舞伎の仮名手本忠臣蔵と、見比べてみたかったのである。

人形浄瑠璃を、歌舞伎に移した忠臣蔵、250年の歴史の中で、どこが同じで、異なってきたのか、比較が楽しみであった。

 仮名手本忠臣蔵は、寛延元年(1748年)8月14日、大阪竹本座で、人形浄瑠璃として初演された。二代目竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作である。その後、すぐに人形浄瑠璃から、歌舞伎に取り入れられたものであるから、内容は、同じなのが当たり前なのだが、歌舞伎は役者が演じるので、役者の見せ場を作るため、入れ事が多くなるし、役者のアイディで、型も多い、今回は、文楽、歌舞伎ともに、全編が上演されたので、同じ所はどこで、違う点がどこなのか、興味深かった。

 舞台が始まる前に、歌舞伎では、裃を着た人形が出てきて、役と役者の名前を、堂々と、時には、コミカルに発表するのであるが、文楽ではこの演出はなかった。歌舞伎で、冒頭に、人形が出て、出演者を紹介するのは、人形浄瑠璃の名残と、聞いていたので、意外な感じがした。いきなり肩透かしを食らってしまった。

冒頭の、大序、鶴ヶ丘兜改めの段は、舞台中央に直義、右に師直、手前右に桃井若狭之助、左に塩谷判官がいるのは、歌舞伎と同じである。この後に、顔世御前がでてきて、兜改めが行われ、そして、師直が、手紙を顔世御前に渡す段取りも同じである。若狭之助が、師直の苛めで、腹を立てる所までは同じで、ここは文楽も、歌舞伎も、ほぼ同じといってよい。師直が、恋文を渡すところは、文楽では、恋歌の段としているが、内容は同じ。戻ってきた若狭之助が、2人の間に入り、顔世を逃したため、師直が更に怒り、若狭之助に八つ当たりする。若狭之助は、師直への遺恨を胸にその場を去る所も同じである。忠臣蔵のきっかけの部分は、文楽、歌舞伎共に、ほぼ同じ内容の舞台が進んで行った。

二段目、桃井館本蔵松切りの段、ここは先日の歌舞伎で観たのだが、屋敷に戻った若狭之助が、家老の加古川本蔵を呼び、師直に虐められたので、師直を殺したいと告げる。本蔵は、短気な若殿に、殺すのを思い止まるように進言するのではなく、逆に、刀で、松の枝をばっさりと切り、このようにしなさいと、逆に唆すのであった。若狭之助は、心得たとばかり、喜んで、その日は素直に寝るのであるが、すぐに本蔵は、家来に、馬を用意させ、師直に、金銀財宝の貢物を持って、参上するのである。妻の戸無瀬と、娘の小浪が見守る中で、出発する。馬に乗り、師直の処に行くところは、人形浄瑠璃にはあっても、歌舞伎にはない。このあたり、本蔵の決断は素早い。この段をみて、本蔵の、家老として大きさ、家の存続を大事に考える思慮深さと、決断力のあるところを見せる。またその動きの素早さ、家をまもろうとする判断が、後に悲劇となって本蔵に降りかかる、この幕が出た事により、本蔵の悲劇性を一層増すように思えた。

進物を、師直に差し出すところ、歌舞伎では、鷺坂伴内が、家来に、「ばっさり」と切れ、という入れ事があるが、文楽ではなし。文楽は、ストレートに貢物を渡すのに対し、歌舞伎では、賂路を渡すところを、リアルに描くより、笑いを入れて、中和させようとしたと思うし、伴内を務める役者に、芝居をさせ、注目させる狙いがあったのだろう。

江戸時代は、賄賂と言う概念は薄く、今でいう贈収賄とは意味が違い、何かしてもらう御礼の意味が強く、人間関係を円滑にする謝礼と言う意識だった。現代での習い事の世界では、中元、歳暮の季節には、いくばくかの金を包むのと、同じである。しかし進物を滞りなく渡した桃井家、相手が満足するほどの進物を送らない塩谷家、両家の運命は、ここで分かれる。本蔵が進物を提供すると、師直の態度は、ころりと変わり、供応の場では、若狭之助に、へりくだる。拍子抜けした若狭之助は、イライラを隠さず、そのまま去る。本蔵の狙い通りに進む。そこに登場した塩谷判官。塩谷判官は、若狭之助の変わりに、師直に、突然虐められてしまう。塩谷判官としては、何が何だか分からない状況で、虐めを受ける。進物を多く贈った若狭の助、進物を少ししか贈らなかった判官家、この差が両家と二人の殿様の運命を分けるのである。師直の頭の中には、顔世御前に振られた、意趣返しと言う側面もあるが、もし塩谷判官の家老が、当時としては当たり前の賄賂を贈っていれば、師直としては、これまで何十年も行い、指南役の役割として、金銭を得ていたのだから、当たり前の事を指導して、事は起きず、まして恣意的に虐めはしなかっただろう。来年も、再来年も、大量の謝礼としての進物を贈られる事が、生活の基盤を支えるのだから、問題を起こす必必要は、全くないのである。でもそれでは、芝居が進まない。

判官は、短慮の性格で、怒りを爆発させ、自分の立場、家の存立、家来の生活を考えず、師直に切り付け、お家断絶、自身は切腹という事になるが、もし由良之助が江戸にいたら、本蔵と同じように、常識レベルを少し超える位の進物を渡して、お家安泰を計ったと思う。適当な額の進物を渡していれば、師直も普通に、供応が成功するように、指導しただろう。塩谷判官も、若狭之助への怒りの代理として、師直に、鮒侍といじめられ、その結果、短慮を起こすこともなかっただろう。忠臣蔵は、塩谷家の仇討が中心だが、高家筆頭、諸事指南役として、供応を指導、指揮してきた高野師直家の悲劇でもあるのだ。塩谷家の江戸詰めの家老の責任は重くのしかかる。

それにしても、歌舞伎では、両家の運命を分ける、賄賂授受のこの瞬間にも、笑いを取り入れるというのは、面白い入れ事だと思う。

腰元お軽が、顔世御前が、師直に描いた手紙を渡すために、やってくる、腰元お軽の文使いの段、鷺坂伴内が登場し、お軽に迫る。師直が顔世御前に、伴内がお軽に横恋慕するが、主従揃っての不純な愛、不毛な愛が、この仮名手本忠臣蔵の、裏に大きく流れている。この場では、師直が来るというお触れがあり、伴内は下がるので、お軽は事なきを得る。手紙を渡すという主人の命令を、もっけの幸いに、実は勘平に会いたいお軽は、手紙を渡す役目を果たし、念願の勘平に会うことができる。そこでお軽は、ちょっと遊ぼうと、勘平を誘い、二人で、殿様を置いて、その場を立ちさる。どこに行って、何をしたのかは、語られていないが、遊ぶというのは、江戸時代から今の世まで、セックスをする隠語であり、多分、水茶屋で、勘平とセックス三昧をしたことは、容易に想像できるし、後で勘平が切腹して死ぬときに、「色に耽ったばっかりに」と後悔することでも分かる。今でいうラブホテルに行って二人は、励んだのであろう。江戸時代の女は、色にかけては、積極的だ。勘平には、殿が城に入れば、退出するまでの時間は、殿の帰りを待つだけで、暇である。お軽は、ラブロマンスを十分楽しめる時間は、たっぷりあると、踏んで、誘ったのである。勘平も、この話に、業務中なのに、乗ってしまったのである。2人は、セックスするために、職場を勝手に離れてしまう。勘平は、公私を分けなければいけない立場なのに、女の言葉に唆され、結果として、道を踏み外す。アメリカの大統領でさえ、執務室で、浮気をする、日本でも、良くある話で、この勘平は、オフィスラブもある現代でも生きている人物像で、見事である。江戸時代でも、公の務めより、セックスを重視した武士がいた事が面白い。芝居に描かれる位だから、江戸時代では、日常の光景だったのだろう。江戸時代は、殿様が城内に入れば、家来は詰め所で、殿様の帰りを待つだけなので、この間、待ちながら、博打もやり、酒も飲み、女といちゃついていたというのが、当時の常識だったのだと思う。

結局、このラブアフェアが、勘平の命取になる。殿が、まさか刃傷に及び、切腹になり、藩が消滅する事態は、勘平は、予測もしなかったのであろう。

 殿中刃傷の段は、歌舞伎と同じだが、師直の苛めが、鮒侍だけに絞られていて、歌舞伎の師直が、憎々しく言葉を重ねて、苛め抜くのとは違う。鮒侍と責められただけで、簡単に刀を抜いて切り付けてしまう。判官の短慮振りが、はっきりと描かれる。一国の城主、藩主が、こんなに簡単に切れてどうするんだと、観客は思ったに違いない。人形浄瑠璃では、判官の短気さ、短慮さが強調されている。歌舞伎では、判官が、言葉の苛めに、耐えて耐えて、我慢の果てに、ついに切れて、刃傷に及ぶ段取りで、判官の悲劇性を強めているが、文楽は、判官の短慮さも、事件の原因の一つと、描かれていて、割りと公平である。それにしても、文楽は、意外にあっさりと刃傷に及んでしまい、拍子抜けした。

刃傷の前に、若狭之助と師直の場面があるが、ここは歌舞伎と同じだった。歌舞伎では、師直の印象を悪く描くため、進物の多さに転んだ師直が、若狭之助に、こびへつらう所が、強調されるが、人形浄瑠璃ではあっさりと、描かれて終わった。

裏門の段、歌舞伎ではあまり出ないが、裏門に、慌てた勘平がやってくるが、中には入れない。殿の大事に、居合わせず、この間ラブホテルで密会していた状況では、この場で、切腹して死ぬしかないと思うのだが、お軽がやってきて、切腹を止める。そして、私の在所に、行こうと勧める。勘平は、ここで腹を切らなければ、責任を取れないと思うのだが、死より生を選ぶ。ここでも勘平は、お軽の勧めに乗ってしまう。お軽にとっては、殿が死のうが、藩が潰れようが、どうでもよく、勘平との二人の関係が続くことが、何より重要なのである。ここも愛に生きる、愛に貪欲で、純粋なお軽がいて、その言葉に、引きずられる勘平がいる。今の時代から見ても、勘平の業務への責任放棄に、問題があり、切腹して当然と思うのだが、江戸時代、男でも、女の誘惑で、忠義より、女に引きずられて、愛を選んでしまう勘平の判断に、見物客が、違和感を覚えなかったことが、不思議だ。忠義より愛が大切だという価値観が、江戸時代に生まれていたとしたら、驚きだし、新鮮だ。

歌舞伎は、裏門の段に変えて、道行となるが、常識を外れた行動を、道行として、美しく描いてしまう。歌舞伎は、常識を超えるが、美しいお軽と勘平が、踊りながら絡む様子は、これから起こる大悲劇の前に、美しい舞台を見たいという観客のニーズに答えたのだろうと、推測する。ひたすら愛の逃避行を美しく描く。この辺、史実より、見た目の美しさを優先させるのは、エンターテインメントとしては仕方がないし、必然である。

花籠の段、籠に花を活けている、丁度その時、顔世御前に、殿の刃傷の知らせが届く、顔世御前は、師直に、手紙を渡したのが原因と思い込む、そこに上使が到着する。大名の奥様の日常が描かれ、その日常が一気に崩れていく事になる。悲劇性をクローズアップさせるための段だと思う。

判官切腹の段は、歌舞伎と同じで、由良之助の登場も、判官が、腹に刃を突き付けた後である。歌舞伎では、判官役者の腕の見せ所となるので、長くなるが、文楽は短い。文楽では、形見と敵(かたき)を混ぜ合わせて言う所は、意外とあっさりしている。歌舞伎は由良之助役者の芸の見せどころなので、劇的になるのだろう

家臣が、舞台上手を睨みつけて、退出するので、城明け渡しは、ないのかと思ったら、舞台上に、由良之助だけが残ると、後ろが変わり、門になる、そしてこの門が、もう一度、上からかぶさって変わり、小さな門に変わる。歌舞伎では、門が、舞台の奥行きを使って、後ろに下がっていくが、文楽では、絵が変わるだけである。ここは、由良之助が、何も言わず、義太夫が、「はったと睨んで」と一言、言うだけで終わる。

 五段目、山崎街道出会いの段、歌舞伎では、与市兵衛が、休憩している所を、斧定九郎が、稲を干している所に隠れていて、後ろから手を出し、金を奪い、一突きで、世市兵衛を殺害するのだが、文楽では、舞台上で、声を掛けて呼び止め、世市兵衛も抵抗するし、命乞いをするのだが、争って殺害してしまう。歌舞伎の、稲を干している後ろから、にゅっと手を伸ばして金を奪い、一突きで殺すのは、斧定九郎の怜悧な殺人者として、かっこよく見せるための入れ事であった。私は、文楽の、与一兵衛が争って殺される方がいいと思う。 

二つ玉の段は、歌舞伎と同じ。

 六段の身売りの段、歌舞伎は、一文字屋の主人は、女性だが、文楽では、男性である。歌舞伎では、女衒が登場するが、文楽では、男性だけである。勘平が戻り、名残りを惜しむところは同じ。猪を打って殺したと思ったのに、殺したのは人間で、懐に入っていた50両を取ってしまったのだが、殺したのは与市兵衛で、奪った金が、義理の父が、娘を苦界に売った金の半金50両だと分かり、じわじわと心理的に追い詰められていくところは同じである。義理の母にも、血で濡れた財布は、与市兵衛の財布で、50両を奪うために殺したと、責められ、その時に、原郷右衛門、先崎与五郎が現れ、金は受け取れないと拒否され、義理の父を殺した殺人犯と追い詰められて、ついに腹に刀を突き立てる。与五郎が、殺された与市兵衛の死骸を改めると、鉄砲で撃たれて死んだのではなく、刀で刺されて殺された事が分かる。逆に、斧定九郎は、鉄砲で死んだ事が分かったので、勘平は、悪逆非道の義理の父親殺しではなく、斧定九郎を殺した忠臣となる。でも、切腹して死が近づいている。連判状に名前を書き込み、血判を押して息絶える。文楽も、歌舞伎も同じ、悲劇的な死で終わる。実に悲しい死だが、主人の大事に、色に耽っていた勘平には、悲劇的な死ではあるが、一種、懲罰的な死として、江戸時代の観客には、当然と受け止められたのかもしれない。

それにしても、藩主が、短慮のあまり刃傷事件を起こし、切腹し、藩が潰れなければ、勘平は、こんな悲劇に巻き込まれなかったのだし、なによりお軽と情事に耽ける事がなければ、田舎屋で、犬死に近い、切腹をして死ぬ事はなかったはずだ。同じ死ぬにしても、討ち入り参加し、忠臣として、見事に切腹して死ぬ事が出来たのだ。忠臣蔵では、人間、一寸先は分からないという現実が、これまでもこれまでもと描かれる。悲劇の連鎖はまだまだ続くが、ここまでが、文楽の第一部である。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

ニュース, ナレーション, 司会, 歌舞伎, お茶, 俳句, 着物, 元NHKアナウンサー