2016年12月6日(火)『国立劇場の12月公演、仮名手本忠臣蔵の通し公演の最終月』

 国立劇場の12月公演、三か月に渡る仮名手本忠臣蔵の通し興行の最終月である。今回は、八段目の道行旅路の嫁入りから、十一段目まで演じられた。幸四郎と梅玉が、今回の顔、座頭である。

 七段目の祇園一力茶屋の、大きな人間ドラマの後に、一服の清涼剤として、舞踊の「道行旅路の嫁入」、を見る分には、気分転換にいいが、いきなり、今日のように、この八段目から見ると、呑気すぎて、相当の違和感がある。30分も、戸無瀬と小浪の山科までの道行が、舞踊で描かれる。舞台中央に、書き割りの、いかにもの富士山がそびえるなか、東海道を京都に向かう、親子二人がそれぞれの思いを持って歩いて行く。歩く事を前提とした踊りだから、引き抜きのような派手さはなく、地味なのである。舞台セットも、富士山から琵琶湖に変わるくらいで、変化に乏しい。途中、絵に描いた、花嫁行列が、上手から下手に通っていく。これを二人が眺めるのだが、戸無瀬は、すでに娘小浪と、由良之助の息子、力哉との結婚は、一応努力はするが、まず無理だろう、駄目なら義理の娘を殺して、自分も死のうと思っている。一方の娘小浪は、力哉と一緒になる事を疑いもしない。晴れて、愛する力哉と夫婦になれる、その喜びを隠せない。真逆な二人の心の模様をどう描けるかが、この舞踊の、眼目なのであるが、変化のない踊りを、30分も見せられては、眠気がいきなり襲ってきて、睡眠タイムになる人が多くいた。魁春は戸無瀬、小浪を児太郎が演じる。魁春はさすが、母の苦悩を踊りで訴えてくるが、児太郎は、力哉と夫婦になれるというウキウキ感が伝わらない。どこか脳天気に見え、顔が美しくないから、この後の悲劇性が増さない。この役は、美しい花形の女形が演じるべきだろう。玉三郎が、15歳の時に、小浪を演じたと聞いた事が有るが、さぞや美しかっただろうと想像する。見たかったな。今なら、小浪のできる、見たい女形は、菊之助位しかいない。梅枝は、地味だし、可愛い米吉がいいかもしれない。観客からすると、はっきり言って、いきなり変化とドラマ性の薄い、華やかさのない、つまらない踊りを30分も見せられるのは迷惑である。しかも、30分の踊りが終わると、35分の休憩になった。これも驚きである。時間の無駄を強く感じた。

 九段目、山科閑居の場。由良之助は梅玉、お石は、なんと笑也、戸無瀬と小浪は、引き続き、魁春と児太郎、本蔵は幸四郎。お石を初役で演じる笑也が、どう演じるか注目である。

冒頭に、歌舞伎で初めて見た、雪転がしが出たので、驚いた。雪の玉を転がして、大石の家まで、祇園一力茶屋の人たちが、大石を送ってくる場面だ。この幕の最後に、死を意味する五輪の塔が出てくるが、これを暗示したシーンである。

 笑也の、お石は、抜擢なのか、どうか知らないが、担当が決まった事を聞いた時には、大変驚いたが、多少の不安を持ちながら、今日、見に来た。いつもお姫様然として、10年一日変化のない芝居をしている笑也が、堂々と、怜悧に、お石を演じて、魁春の戸無瀬と互角に勝負していた。所々に殺気を感じ、全体に、きっぱりとした感じがよくでていたと思う。猿之助一門で、長い間笑也を見てきた、贔屓目が、そう思わせたのかもしれない。 

そして本蔵の幸四郎が登場して、歌舞伎が、一段と大きくなった。別に幸四郎ファンではないが、幸四郎の役者としての実力がそうさせるのだろう。本蔵の抱える苦しさが、台詞の一つ一つに込められて、若狭之助の家老と言う立場で、師直に賄賂を渡し、刃傷の際には、判官を抱き留め、師直を殺そうとした判官を自由にさせなかったことを、一生の不覚と嘆く、本蔵の悲劇性が、よく伝わった。由良之助は、この舞台では、さほどしどころのある役ではないが、梅玉が、腹の座った大家の家老を、まじめに演じていて、これはこれで、良かったと思う。

 十段目は、天河屋義平内の場、歌六が、赤穂浪士に協力する商人の心意気を高らかにうたい上げた。今日の中では、一番の舞台だった。歌六は、吉右衛門の傘下に入り、吉右衛門の脇を固め、年を取ってから、ぐいぐいと、その秘めた実力が、表に出てきて、役者としての存在感が出てきたが、その力強さを見せた舞台である。赤穂浪士の企てに賛同し、武具を揃え、役人に踏み込まれても、例え息子を殺されようと、「天河屋義平は男でござる」、としらを切るその姿は、男らしく、健気で、美しく、感動的だ。忠臣蔵は、武士の世界の物語で、観衆の中心である町民とは関係のない世界であるが、作者が、商人である天河屋義平を登場させたのは、町民も、赤穂浪士が好きで、赤穂義士の味方だったのだという、その証拠を、50年後百年後の観客に見せるために、わざわざ作った作術だと思う。この幕は、仮名手本忠臣蔵の中で、あってもなくても良くて、とってつけたように異質であるからだ。網の目のように凝らされ、仕掛けられた仮名手本忠臣蔵の人と人の関係、繋がりがこの幕には、何もないからだ。更に決定的に、この幕が弱いのは、天河屋義平が、「天河屋義平は男でござる」と、高らかに叫んだ後に、実は義平が、心から信用できる男なのか、由良之助が試したという事が分かり、なんだ、そこまで言わせておいて、忠義を試したのかよと、観客が、急に醒めてしまうのだ。作話までこしらえて、商人の忠義を確認するという話。由良之助は、「私は信じたいが、浪士には疑う者もいるから試した」と、苦しい言い訳をするのだが、作者としても、苦しい所なのだろう。そのためか、通し公演でも、あまり天河屋義平の場はやらない。やはり武士は、武士同志は、信用できても、一般の町民は信用できる存在ではないのだ、と暗示しているようで、気分が良くない。

 最後は、十一段目、戦闘シーンが、次々に繰り広げられるが、ドラマ性はなく、長時間やる意味合いは薄い。小林平八郎に松緑や、亀蔵が吉良方の侍としてでてきても、見せ場がなくかわいそう。最後は、花水橋引揚の場、橋が中央にかかり、浪士が一人一人登場するところは、圧巻だった。赤穂浪士全員が、勢揃いする。国立劇場の舞台の奥行きの広さが出た。最後に、若狭之助が登場し、赤穂浪士を褒めちぎるが、左團次では、貫禄がありすぎ、老中、大老が出てきた感じがして、若狭之助としては、重すぎる。といって、今回の座組では、この役を務められるのは、錦之助位しかいない。幸四郎が、二役で出てくれば、御馳走として、観客大喜びだったであろう。

 全体として、10月からの三か月に渡る、仮名手本忠臣蔵の通し興行だったが、私は堪能したが、国立劇場50周年記念公演ならば、もっと役者を揃えられなかったのか、疑問に思った。由良之助を、現在を代表する、吉右衛門、幸四郎だけでなくて、仁左衛門でも見たかったと思う。現代のベストの人材を、フルに使っての、仮名手本忠臣蔵だったとは、到底思えない。松竹から、50周年なので、やっと、これだけの役者を、借りられたということだろう。本拠地歌舞伎座では、芝翫襲名興行が行われ、松竹としても、それどころではなかったのかもしれない。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

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