2016年5月21日(土)『国立劇場、前進座の四谷怪談』

 国立劇場で、前進座の四谷怪談を見た。先日は、国立劇場で、幸四郎の四谷怪談を観、これまで歌舞伎座で、何度も見た四谷怪談であるが、大歌舞伎と前進座の歌舞伎の四谷怪談は、どこが似ていて、どこが似ていないのか、注目して観る事にした。

今回の四谷怪談で、いつもは出ない幕も出て、鶴屋南北の名作、四谷怪談の筋は、実に良く分かった。しかし、南北の歌舞伎芝居の、多くの血が流れ、退廃的で、人間が人間を殺すなど日常当たり前の、どろどろとした味は正直感じなかった。心の印影を、形で見せ、台詞で聴かせ、表情で見せ、役者のニンで見せる大歌舞伎と違い、前進座の歌舞伎は、映画やテレビで見る、若手主役の時代劇版の四谷怪談のように見えた。なぜなんだろうか。前進座の主役クラスの役者が出演していると言っても、はっきり言って毎月見ている役者ではなく、何年に一度見る位の、私にとっては、知らない役者ばかりで、役者で舞台をみるという歌舞伎の見方が、できないためである。幸四郎なら、色悪の伊右衛門をどう演じるかの楽しみがある。悪の凄味を、表情一つで、立体的に演じる力と、自分に客の眼を集中させるパワーがある。しかし前進座の俳優は、権兵衛役の、藤川矢之輔以外は、ほとんど知らない者だから、その楽しさがない。役者の魅力で歌舞伎を見る楽しさが、前進座にはないのである。伊右衛門は、嵐芳三郎が勤めたが、この人が、どんな役者なのか、私はよく知らない。だから、嵐芳三郎が色悪をどう演じるのか、彼の芝居を見ていないので、彼からイメージを広げて楽しめないのである。総じて、新人俳優ばかりの、時代劇としての四谷怪談という見方しかできなかった。テンポ良く芝居が進んでいき、まるでテレビの時代劇のように、四谷怪談お馴染みのシーンが次々に出てきて、それはそれ楽しめるのだが、伊右衛門、お岩などの主役の人物描写や心の変化に、深みが見られず、四谷怪談のストーリーしか楽しめなかった。南北が筆を凝らした、これでもかこれでもかという、ストーリー展開としては、面白かったが、実は、実はの連続で、因縁が因縁を呼び、ちょとした人の心の変化が、他人の運命を決めると言う、南北劇の主要な命題に、魂が吹き込まれておらず、総じて淡白に感じた。

 先日見た幸四郎の民谷伊右衛門には、色悪としての、ニヒルな表情があったし、時の変化とともに、自分を取り巻くもろもろの状況の中で、心が変化していく様を、リアルに描いていた。お岩を心から愛していて、四谷左門を殺してでも、自分の家に戻したのに、貧困のために生活は苦しく、傘張の内職をして何とか生活している。そこに男の子がうまれ、おまけに産後の日達が悪く、妻は寝込み、赤ん坊は、泣き止まない。鬱積した心が、暗い長屋生活を覆って、心底この貧乏から抜け出したいと、伊右衛門は思ったはずだ。そして、隣家の伊藤家の娘が、自分に恋していると聞き、結婚してくれと言う。妻があると、一旦は断ったが、高野家に仕官させるとの約束をもらい、金持ちでもある伊藤家の事を考えると、妻のお岩を、按摩の宅悦に、連れて逃げてくれと頼むほどだ。このあたり、塩谷家の侍であれば、判官が人情事件を起こし、お家が潰れなければ幸せな人生を送っていたはずの武士が、バカ殿の乱心で、藩が潰れ、路頭に迷う、世の中と、人生の変化で、心も急展開、思いも寄らぬ方向に、心が変化するという、芝居の眼目だ。

伊右衛門は、当初は、お岩を殺す事は考えなかっただろうが、伊藤家からの薬のプレゼントは、お岩の顔を醜くく変化させる秘薬で、家に帰れば、顔のただれた気持ちの悪いお岩がいる、そのお岩と争ううちに、壁に刺さっていた短刀に、お岩は、首を刺してしまい、絶命。お岩は、幽霊になって、伊右衛門を苦しめる、と言うお馴染みのストーリーだ。

伊右衛門は、結局お岩にたたられて破滅するのだが、強度の貧困の中で、浮上するチャンスに巡り合い、愛妻を捨てて、別の女を取り、金に恵まれる方を選らぶと言う、現代にも共通する、男の上昇志向の行動パターンがうかがえる。その伊右衛門の心の変化が、嵐芳三郎には、感じられない、心の変化、心の変化に伴う伊右衛門の陰影も感じられない。綺麗であっても、相対的に、表情が変わらず、心の奥底の、どろどろとした心の変形が、表情に表れず、極めて淡白に感じた。 

お岩も同じことが言える。河原崎國太郎演じるお岩も、綺麗ではあっても、いったん実家に引き戻されながら、家の困窮もあり、再び伊右衛門の家に戻る。子供ができたという事は、仲睦まじい日々もあったのだろうと想像できる。ただ家は困窮を極めている。男の子に恵まれても、自分は産後に肥立ちが悪く、寝たきりの生活、主人には、疎まれていると感じている。そんな折、隣家の伊藤家から産後のひだちが良くなる薬をもらい、ありがたがって呑むが、顔がただれて、二目と見ない醜悪な顔に変化している。そんな折、帰宅した伊右衛門は、質のネタに、我が子の着物、カヤまで持って行こうとする。怒りに日を燃やしたお岩は、必死に頼み込むが、伊右衛門は、非常にも質草として持って行く。そして、恨みの塊となったところで、柱にたまたま刺さっていた短刀を首に刺し、絶命する。そして怨霊となって伊右衛門を苦しめるのだ。このあたりの、平穏な生活が、貧困の中、子供を産んだため、産後の病弱、主人の上昇志向、と相まって、苦しめられ、非業の死を遂げる、怨霊となって伊右衛門を苦しめる、その心の変化が、感じれられないのだ。髪好きで、髪が抜ける有名なシーンも、淡々と進んで、恐怖感がない。髪の毛が異常に抜け落ちる、心の急変と同じく、人の外観も急な変化を遂げるという南北のメッセージが、伝わらない。綺麗に演じようとし過ぎる。だから淡白、これでは怨霊になって祟りはこないだろう。

 結局直助役の藤川弥之輔だけが、悪党だが、憎むめない役どころをうまくつかんで、演じていた。悪党もいつも悪いのではなく、時にはコミカルな時もある、という江戸人の悪人の見立てが、よく出ている。これは、文七元結でも、いがみの権太でも癒える所だ。最後は真人間に返って、切腹して果てるから、その分、悲劇性も大きくなる。弥之輔は、生涯の当たり役を作ったと感じた。