2016年5月7日(土)『団菊祭5月歌舞伎昼の部。鵺退治、寺子屋、十六夜清心、楼門五三桐』
昨日に続いて、団菊祭の昼の部を見た。最初の幕が、鵺退治(ぬえたいじ)。この演目は、初めて観た。それもそのはず、昭和37年以来の54年振りの上演だ。明治32年(1899)に福地桜痴作の新作歌舞伎で、いわゆる活歴物だ。九代目の團十郎と、五代目菊五郎に書き下ろして、初演された。 一言で言って、たわいのない話である。源頼政が、鵺と言う怪物を退治するという物語である、鵺は、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎に似ている怪物だ。頼政が梅玉、頼政が慕っている菖蒲の前は魁春。梅玉は、雰囲気が、貴公子然として、髭を蓄えていても、武勇に秀でたイメージはなく、最初は、配役を間違えたのではないかと思った。梅玉の武士といえば、頼朝の死の、頼家がイメージされる。内向的で、少しイライラした、精神性の高い武士というイメージが先行する。今回も、そのイメージ通りで、武勇に優れた豪傑には見えない。ただ見得はさすが、極めて美しく決まる。やはり梅玉は貴公子が似合う。梅玉の侍は、動きが鈍く、優美だが、きびきびしておらず、とても武勇に優れた武士には見えない。見得を決める時に、優美に決めるのだが、もっと力で押して決めないと、力強さに欠けてしまう。家来である猪の早太を務めた又五郎が、顔の作りが立派だから、見た目強そうに見え、力が籠った見得をするから、頼政以上に、強く見えてしまった。
次は寺子屋、もう何回見たか忘れるくらい、お馴染みの寺子屋だ。海老蔵の松王丸、松緑の武部源蔵、菊之助が千代、梅枝が戸浪、と言う新時代の顔ぶれ、後10年もすれば、この顔ぶれが寺子屋の新基準になるだろう。その期待値がどれ位なのか、確かめようと観にいった。
この芝居は、菅原伝授手習鑑と言う芝居の、一部だ。菅原道真は、藤原時平の讒言で、流罪となる。道真に仕え、大恩のある武部源蔵は、寺子屋の師匠として生計を立てている。そして道真の子、秀才をかくまって育てている。しかしこの件が発覚して、秀才の首を切り、差し出すように命じられる。源蔵は、主人の息子の首を討ち、差し出すのか、誰か代わりの首を出だそうにも、田舎者の子供の首では、ばれてしまう。こんな時、高貴な顔をした子供を、お母さんが伴い寺子屋に入門したいと、訪れる。源蔵は、この子を一目見て、秀才の身代わりになりと判断、上使である春藤玄蕃、松王丸が首をさしだせと命じると、源蔵は、秀才の身代わりに、入門したばかりの子供の首を切り、上使に差し出す。源蔵は、身代わりの首だと、露見したら、どうしようと、不安な面持ちである。松王丸は、秀才の顔を知っている。愈々首実検、しかし松王丸は、秀才の首に間違いないと言い、玄蕃が首桶を持ち、罪は不問にすると言い放ち、帰る。実は、今日入門した子は、松王丸の子供で、松王丸は、時平に使えていたが、道真に恩を感じていて、源蔵が窮地に陥ったかを承知のうえで、我が子を、秀才の身代わりにするように、寺子屋に入門させたのだ。松王丸は、我が子を犠牲にして、秀才の命を助けたのであった。
最初に、この芝居を観た時、例え、旧主のためとはいえ、寺子屋に入門したばかりの、自分の教え子になるはずの子供を、たとえ旧主のためとはいえ、殺して、首を差し出すという行為が理解できず、いかに江戸時代とはいえ、(舞台は平安時代だが)無茶苦茶であると思っていた。今なら悪質な殺人事件だと、怒りに燃えた事を思い出す。
源蔵には、旧主に大恩がある、妻との不倫を許し、破門されたが、書の後継者として、筆法を伝授してくれた大恩人だ。秀才のために、我が子を犠牲にするなら、まだ理解できただろうが、他人の子を、しかも大事な門下生を殺してしまうのは、完全に理解不能だ。。いかに高貴な顔立ちだからと言って、秀才のために、殺してしまうなんて、ありえないことだ。松王丸が、秀才の身替りに殺されることを承知し、予想して、我が子を、寺子屋に入門させたというのも、分かるようで分からない。松王丸は、あくまで藤原時平に仕えているのであって、忠を尽くすのは、時平のはずである。この松王丸が、我が子を、殺されるのを承知で、寺子屋に入門させる。この行為も、理解を超えている。源蔵の菅原道真への忠義心は、良く分かる。これを知れば、源蔵の、迷い、苦しみは、多少でも理解が可能だ。しかし、松王丸が、主人の時平の忠義を尽くさず、政敵の菅原道真のために、なぜわが子を差し出したのかは、説明がないので、理解に苦しむのだ。
さて、海老蔵の松王丸は、姿形が立派、低音もよく響き、貫禄十分である。ただ病気で、時折せき込むのだが、とても病気には見えないない、ただ見得は立派。松緑の源蔵は、深刻ぶるのはいいが、目がぎょろついて、かえって落ち着かない。我が子の首実験で、松王丸が首桶の蓋を取って顔を覗き込む場面、今回は團十郎型という事で、春藤玄蕃が、蓋を取り、顔を松王丸に見せるようになっている、この時、松王丸は、刀を抜き、刃の先を源蔵に向ける、ここは、何かある時には、玄蕃を切る腹なのだろう。ちょっと、この型は、しっくりいかない。自分で首桶の蓋を取り、思い入れをいれて、我が子の首と分かっていながら、菅秀才の首に間違いないと言う、演出の方が、スリリングで、悲しみが増す。玄蕃が首桶の蓋をとり、首を松王丸に見せるのでは、松王丸の深い悲しみが、見えてこない。
十六夜清心は、時蔵と菊之助の顔合わせ、十六夜を時蔵、清心を菊之助が初役で務めた。心中に失敗して、陸(おか)に上がった清心が、松也演じる若衆から50両奪い、「しかし待てよ」と、心を悪に変える場面が有名な舞台。菊五郎のように、初めからまじめにやっているようで、そうじゃない,可笑しみのある芸風だと、人生を引っくり返し、いきなり悪の道に突っ走る考えに切り替える心の変化が、観る側に楽しく見えるのだが、菊之助は、根がまじめな芸風なので、悪に、一気にぶっかえらない、マイナスが働いてしまう。でも、初役、まじめに演じているから良しとしよう。
楼門五三桐【さんもんござんのきり】は、吉右衛門の五右衛門、久吉が菊五郎の顔合わせ、豪華絢爛な舞台で、うっとり。あっという間に終わってしまった。南禅寺の山門がせりあがる舞台は、これが歌舞伎と言う感じ。
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