2016年4月25日(月)『明治座花形歌舞伎夜の部。浮かれ心中、二人椀久』
明治座の四月花形歌舞伎の夜の部を見た。前日の電話したら、たまたま3階A席が一席空いていて、五千円で見ることができた。ただこの時の電話で、担当者が、『席の前に、棒とか柱があり、邪魔になって、少し見ずらいですが、いいですか?』と言うので、何のことか分からず、一枚しか残券がないので、つい買ってしまった。当日、席について、分かったのだが、すぐ右横が階段で、私の席の左側に座る客が、自席に着く際に、手掛かりになるように、鉄製のバーが取り付けられていたのだ。そのバーを支える縦の棒と、バーそのものが、視界に入ってきて、舞台の丁度中央あたりを、縦と横にに遮るので、極めて、見ずらいのだ。ずっと明治座は、開場以来、こんな事を続けてきたのだろうか。その席に座った者しか分からない苦痛を与え続けてきたのだろうか。解決策は、歌舞伎座のように、バーを上下させる仕組みを導入すれんばいいだけだ。手すりを固定してしまうのではなく、ピンで止める仕掛けにすればよい、幕間はバーを高く上げ、通行に役立て、幕が始まる前に低く落とせばいいのだ。オペラハウスでは、建物の構造上、舞台の左半分は見えない席もあり、値段は極めて安くなる。同じ料金を払い、その席だけ、見ずらいには、不合理だろう。早急に改善を求めたい。
明治座四月花形歌舞伎は、勘九郎、、七之助兄弟に、菊之助を加えた座組みだ。夜の部は、浮かれ心中と、二人椀久の二本立てだ。
浮かれ心中は、勘三郎で、三度見た。井上やすしの手鎖心中を元にした舞台だ。黄表紙作家になりたい若旦那の栄次郎は、山東京伝のようにベストセラーを出すような作者に成りたい。そのためには、作者として有名にならないと、本は売れない。有名になれば本は売れると、勝手に思い込み、有名になるためには、話題を作らなければと、様々な仕掛けをし、涙ぐましい努力をする。とうとう花魁と心中するアイディアを思いつき、これで有名になれると、お客さんが大勢集まったところで、心中の振りをしようとすると、花魁の間夫が、乱入し、栄次郎と、花魁をさして、栄次郎は死んでしまう。努力が裏目に出て、死んでしまうのだが、死後栄次郎は有名になり、本は売れ、有名になる。落ちは、皮肉な話で終わる。一言で言えば、馬鹿馬鹿しい話だが、現在でも、有名になるためには、人のうわさになるためには何でもやる。マスコミに乗せるために、様々な仕掛けを繰り出す。有名になるための仕掛けは、スキャンダルだ。これは昔も今も変わっていないので、現代に生きる我々の心を打つ。誰しも、人の心の中には。有名になりたいという気持ちが、少しはあるから、共感してしまうのだ。
勘三郎は、その人の心を、拡大して、馬鹿馬鹿しい人間に造形して、役者としてのニンで、まじめに演技をして、時には、やりすぎくらい突っ込んで、笑いをとった、演技に、おおらかさと、笑いがあったから、馬鹿馬鹿しい人物を、描写できたのだと思う。栄次郎の友達,太助は、三津五郎が演じていたが、ぼうっとしていながら、ひたすらウケの芝居をして、逆に面白さを演出していたものだ。
井上ひさしが原作の、ブラックコメディを、勘三郎は、手を変え品を変えて、客に受けようと必死になって取り組んだ。部分部分は楽しく、見ている時には、それなりに楽しいが、終わってしまえば、ハイそれまで、暇潰しにはなったが、観終わった後の感激はなかった。
あの勘三郎でさえ、苦心して客を笑わせようと、体当たりで格闘した井上ひさし原作の、浮かれ心中を、勘九郎が、主演するという事なので、どう取り組むのか観にいった訳だ。
勘三郎で大笑いした舞台が、勘九郎では、面白くないのだ。なぜなんだろうか、舞台を見ながら、考え続けてしまった。語尾を少し上げた勘三郎の口調も上手く真似ている、目を瞑ってセリフを聞いていると、勘三郎が生き返ったのかと思うほど似ていて、昔が懐かしいというか、涙が出てくる。ただ、もう勘三郎が懐かしくて見に来る客は少なく、今を生きる勘九郎を見に来ているのだ。ただ、もう口調だけの勘三郎の真似は、やめにしたらいい。言葉尻だけで、人を笑わせようとすると、滑る。聞いていて辛い。勘三郎は、時代物、世話物ともに、歌舞伎の今の時代を支えていく力量があり、歌舞伎の芯はぶれていない役者だった。歌舞伎の正統を継いでいく役者だった。俊寛は、俊寛で、高位の僧侶でありながら赦免に心が揺れる老人の喜怒哀楽をうまく出していたし、髪結新三では、街の子悪党を巧みに演じていた、鏡獅子では、他者の追随を許さなかった。娘道成寺だって、六代目菊五郎の振りで、踊ってみせた。その手練れの勘三郎が、一條大蔵卿で見せた、おかしみの演技を、浮かれ心中では、強調して、余裕のあるおどけ振りを見せるから、観客は、心から喜んだ。中村座を押し立てて、役者魂をぶつけている本気な勘三郎だからこそ、喜劇は喜劇として、お客も存分に笑い、勘三郎も、苦心はあったかもしれないが、喜劇も余裕をもって演じていたので、お客は、心から楽しめた。もともと陽気で明るい芸風だったし、サービス精神旺盛であるから、本気で、客を楽しませようとして、飛んだり跳ねたり、転がったり、走り回ったりして、舞台を動き回ったし、アドリブもでた。役者としての余裕、引き出しだと思い、見る側も、本気で楽しめたのだと思う。
役者は、真の顔があっての別の顔である。勘九郎には、はっきり言って、まだ真の顔がない。芸がないと置き換えてもいい。歌舞伎座では、まだ主役は張れない。花形の存在である。その勘九郎が、喜劇をやっても、難しいんじゃないかと思って、浮かれ心中を観たが、やはり難しかった。語尾の変化も鼻につき、でしょうと、相手に同意を求めるフレーズもうるさく感じる。勘九郎が勘三郎の真似をしても、勘三郎が死んですぐは有効であっても、数年も経てば、通用しない。この手法は、もうはなから駄目なのだ。観客を笑わせようと、目を見開いて、オーバーに演技をして。頑張るのだが、空回りして、気の毒と言うか、痛い。勘三郎と勘九郎のにんの違いを明確に感じた次第である。
黄表紙作者を目指す栄次郎が、何のために、1年間偽装結婚するのか、わからないまま舞台は進む。どうやら出版元のようだが、説明不足だ。で、結婚式を挙げている処で、突然横に飛び出びだして寝転がり、新妻の顔を見ようとするのだが、その前の段取りがないから、突然倒れたようにみえ、異様な雰囲気になる。勘三郎なら、ためを作り、顔を顔を見たいと、演技しておいて、すっと柔らかく倒れて、顔を盗み見しようとするから、どっと沸くが、勘九郎では、いきなり倒れて、何をしたのかと、客が驚いてしまう。人を笑わせるには、高度な技が必要だ、勘九郎には、難度の高い技は、まだできない。まじめ一辺倒な勘九郎が、勘三郎を表面だけ真似ても、真似しきれないのだ。客は、いっそうクールになり、しらけてしまった。隣のおばさんは、ずっと寝ていた。
梅枝の花魁道中で、花魁を見て、うっとりとする所も、籠釣瓶を当て込んで、笑わせようとする。佐野次郎左衛門のようだと言って笑わせようとするが、場内で笑ったのは、私だけであった。勘三郎は、籠釣瓶の佐野次郎左衛門を狂気と化して演じた。だから当時の観客も、佐野治郎と聞いただけで、勘三郎の佐野次郎左衛門を瞬時に思い出し、籠釣瓶に当てつけたシーンだと知っているので、大いに笑える。勘九郎は、まだ籠釣瓶をやった事がないので、勘九郎についたファンは、籠釣瓶のしゃれだと気が付かず、笑わない。観客はついていけないのだ。、
とにかく有名になりたいと、女郎を身請けして話題を取ったり、手鎖の刑を自ら訴えで出て筆禍事件の当事者になったと、話題を集めようとし、最後は、花魁と、心中の真似をして、江戸っ子の関心を引こうとしたのだが、それぞれの場面で、井上ひさしの戯曲の言葉だけに終わり、勘三郎の形だけ真似をして、体当たりで演じているように見えて、逆に淡白なので、突っ込みが足りない印象が残る。勘九郎としての工夫が感じられない。最後に、心中しようとした直前に、女郎の間夫が、栄次郎と女郎を指して、栄次郎が死んでしまうのだが、この皮肉が効かない。ネズミの着ぐるみにまたがっての最後の宙乗りも、勘三郎なら、全知全能をかけて、すべてを演じきって、お客も、十分に堪能しているから、ネズミで、ちゅう乗りのしゃれが効いて可笑しさが出る。猿之助(現在の猿王)の向こうを張ったと言って笑わせることができた。歌舞伎の世界で苦労して、狐忠信で、宙乗りを復活させて、大評判をとった猿之助を、勘三郎は、リスペクトしていたから、このセリフが、観客の心にも、ジーンと伝わり、しみじみとさせたものだが、勘九郎が、猿之助が鯨に乗って宙乗りしていると、笑わせとようとしたが、面白さは伝わらない。当代猿之助が、ワンピースという漫画を、歌舞伎にする努力を分かっているのだろうか。勘九郎だと、はなからねずみだから、ちゅう乗りというしゃれも効かず、客も、それだけかと馬鹿にして、面白くないのである。
勘九郎が、勘三郎の真似をしても、真の演技がないから、観客は、余裕をもって笑えない。歌舞伎の真の柱になる所に、大きな努力を傾けるべきであろう。それが確立された後で、喜劇に取り組んでも遅くはないだろう。勘三郎と勘九郎は、どうも個性が違うのではないのかと思う。硬質な芸風を持つ勘九郎には、喜劇は、ニンではないのかもしれない。もし再演することがあれな、勘九郎オリジナルな栄次郎を確立しないと、面白くならないと思う。
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