2015年10月22日(木)『国立劇場10月公演、梅玉の伊勢音頭恋寝刃』
国立劇場の10月大歌舞伎、伊勢音頭恋寝刃の通しを観た。4時間は長い。梅玉が福岡貢、万野が魁春、これに雁治郎が加わった座組だ。
伊勢音頭恋寝刃は、伊勢古市で実際に起きた事件、大量殺人事件である油屋騒動を題材にして、寛政年間、大阪角座で芝居化されたものだ。自分が呼んだ遊女が急にいなくなったことに腹を立てた医者が、何人もの遊女を殺した挙句、自殺した事件を、わずかニケ月後に、歌舞伎化したものだ。といっても実録ではなく、事件にかこつけて、適当に筋を組立てて作ったものである。まあ、際物といってもよく、強引な筋立ては、荒唐無稽ではあるが、一生に一度はお参りに行きたい伊勢神宮の近辺で起きた大量殺人怪事件なので、芝居の一部に、夫婦岩の名所を出し、擬似的な伊勢参りの雰囲気を持たせて興味を引き、場面場面は、江戸時代人の好みに合わせたものと言っていいだろう。
芝居は、伊勢の大量殺人事件を、よくあるお家騒動物に、仕立て上げている。大名、旗本のお家騒動は、江戸人は、大好きなようだし、なにより大量殺人も、江戸人の好みかもしれない。、この芝居、現代では、油屋と大詰め、しかやらないが、はっきり言って主役の福岡貢を、どう役者が演じるかが注目の舞台で、貢役の役者の演技を見に行く芝居である。はっ切り言って、筋は、どうでもいいのだ。
主役の福岡貢は、女にいいように振り回されるピントコナの役割で、万野にいじめられる福岡貢の慌てふためきと、片っ端から人を切っていく大量殺人の美しさを見に行く芝居なのである。
主役は福岡貢、伊勢神宮の御師,下級の神官を務めている。その主筋の万次郎は、馬鹿男で、家宝の刀、青い下坂と書付を売ってしまう。お家再興には、どうしても必要な刀なので、貢は探索して苦労する。最後は、女郎屋で、万野に虐められて、おたおたし、そのうち怒りが爆発し、人を誤って殺し、殺し始めたら、殺人が止まらず、殺しまくり、最後は、家宝が戻り、書付も戻り、お家再興も決まり、目出度し目出度しと言う筋である。人を何人も殺してハッピーエンドで終わるのも理解できないところだが、主役の福岡貢を演じる役者が、辱められ、虐められて、耐えて、最後に刀を抜くや、片っ端から殺していく、怒りを爆破させると、どんなにおとなしい人でも、怒ると怖いぞというところを見せたい訳で、結果がどうでもいいのである。
凄惨な殺人シーンを、これまでもこれまでと見せる。浮世絵師の芳年の無残絵に共通して、江戸人は、殺人シーンが大好きなのであろう。でも、最後は、強引でも、目出度し目出度しで終わる。大量殺人を起こしたのに、それはおいておいて、最後はハッピーエンドで終了。お仕舞いは、筋はどうあれ、めでたしめでたしが、江戸人の好みであるようだ。
今回の国立の通し、いつもは、油屋と大詰しかみていなかったので、その前の芝居が、どんな展開なのか、見てみたかったと言う程度の消極的な期待で観にいつた。大きな期待を持って観に行ったわけではないが、少しの期待も、水の泡のように消えた。通しで観ても、面白くなかった。正直言って、伊勢音頭恋寝刃は、筋が面白い芝居ではない。油屋と、大詰めの大量殺人だけでいいのである。そして、主役の貢を演ずる役者の、ぴんとこなぶり、頼りなく、怒りっぽく、情けなく、その男が、刀を持った途端、なんでだか、理由もわからないのに、最後に大量殺人を犯す、一人の変質者に変わる演技を楽しむ芝居なのである。
結局のところ、この芝居は、貢をやる役者の腕を見に行く芝居である。主役を務める貢を演じる役者に魅力がなければ、引っ張っていけない芝居だから、梅玉にその魅力があればよし、なければどうすることもできない芝居である。梅玉には、気力がないのか、舞台から梅玉の気力が全く感じられない。エネルギーが、全く感じられない。貢の人物形成、キャラクター作りもなにもない、ただすまして演技しているだけ、怒る訳でもなく、泣く訳でもなく、困る訳でもなく、たんたんと演技しているだけだ。綺麗さだけを見せるには、梅玉は歳を取りすぎている。梅玉には、演技者としてのパワーがほしい。結果、主役貢役の梅玉に魅力がないので、芝居が面白くもなんともなかった。最近観た歌舞伎の中で、一番面白くなった。
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