令和3年1月26日(火) 『歌舞伎座、初春大歌舞伎二部。夕霧名残の正月。仮名手本忠臣蔵七段目を見る」

歌舞伎座に行き、第二部を見る。正月二日に見たが、病気で休演していた吉右衛門が心配で、再度観に行く。吉右衛門は昨日から復帰したそうだが、吉右衛門のいつもの堂々とした存在感が薄く、声に迫力がなく、心配である。

一幕目は、夕霧名残の正月。去年12月に亡くなった坂田藤十郎を偲んでと題されても公演である。坂田藤十郎襲名披露の時に、藤十郎が藤屋伊左衛門、夕霧を雀右衛門が演じた事を思い出した。雀右衛門演じる、すでに亡くなった夕霧が、夢に出てきた感じではなく、むしろ、むっちりとした現世に生きているように見える花魁が登場すると、一方の伊左衛門の藤十郎が、高齢でも、丸い顔がふくよかで若く、美しく、身体全体から色気が溢れて、二人が絡んで踊ると、まるで、二人が、あの世で情愛の限りを尽くしているようで、高齢者二人の、年齢を超えた芸の高さに圧倒された。今回は、雁治郎が伊左衛門、夕霧を扇雀が務めた。松竹座で、一度公演があったが、東京では、二人のこの芝居は初となる。

夕霧が亡くなって、四十九日の当日、その死をしらない伊左衛門が、扇屋にやって来る。舞台は、破風が付けられた、江戸時代初期の歌舞伎小屋の風情で、能舞台の様に、舞台下手に橋掛かりがあり、ここから伊左衛門の雁治郎が登場した。体つきは、親譲りで、今は珍しい四頭身の身体、浅黄地に裾をぼかした萩の花と観世水の模様、左肩に月という漢字を描いた、私の記憶では、藤十郎が着たものと同じ模様の紙子で登場した。舞台が遠いので、紙子風の着物だろうが、少し肩を落として、ゆったりと現れると、その瞬間に藤十郎を思い出させてくれた。なぜか、雁治郎は、藤十郎と同じ体つきなのであるが、太ってはいても藤十郎は、太さが気にならず、逆にふくよかさが出ていたが、雁治郎は巨体という感じで、零落した哀れさは全く感じない。芸風の違いというより、雁治郎は立ち役、藤十郎は兼る役者だったから仕方がないか。舞台上手には、衣装掛けに、生前夕霧が着ていた打掛が飾られている。そこで、伊左衛門が懐かしんだ後に、眠りに陥ると、舞台の松羽目が飛んで、桜の中から夕霧の扇雀が現れる。扇雀は、顔の骨格は父とは異なり、顎のラインが違ってはいるが、藤十郎が持っていた、艶やかさを持っての登場に、一気に懐かしさの中に引っ張つていかれた。体の線は細いが、藤十郎が、舞台に現れた様な錯覚を持った。しばし藤十郎を懐かしんでいるうちに、夕霧が、すっぽんに消え、伊左衛門が再び眠って、今のは夢だったと分かる構成だった。ひたすら懐かしく、藤十郎の和事を雁治郎が、女形の芸を扇雀が受け継いで、藤十郎の芸が、息子たちに、見事に分け与えられた印象を持った。

続いて、仮名手本忠臣蔵七段目、吉右衛門が休演して、昨日から舞台に復帰して、元気な姿を見られてホッとしたが、いつもの吉右衛門が持つ、威風堂々とした力感がなく、声の押出も弱く、きっぱりとした雰囲気がなかったので、極めて心配だった。無理しないで、そのまま休んでも良かったのではないかと思う。

七段目といいながら、前半の遊んでいるシーンがなく、顔世御前からの密書を、釣灯籠の明かりで読むシーンから始まった。七段目の大星由良助の前半と後半の性根を見せることが出来ず、中途半端な印象をもった。その為か、由良助の見せ所が、お軽との絡みのシーンのみになってしまった。お軽が、密書を手鏡で盗み見し、由良助が読んで、それを縁の下の斧九大夫が盗み見る三人の姿が美しかった。この後、お軽を上手二階から梯子で下に降ろし、身請けの話となるが、吉右衛門の状態が悪くて、初日で観た様な、お軽に、手紙を読まれて、身請けして殺すしかないと、殺意を持つところがはっきりしなかったし、身請け話の、じゃらじゃらとしたあたりも、雀右衛門のおかるに、休場明けの吉右衛門が会わせられず、あっさりとした印象を受けた。雀右衛門の、おかるは、すでに持ち役となっていて、色っぽさに溢れていた。今回の構成では、むしろ梅玉の平右衛門と妹のお軽とやり取りが中心となった。平右衛門が、何故由良助が、面識がほとんどないお軽を身請けするのか、という謎を解くあたりが、くっきりと描かれていたと思う。梅玉は、アドリブが効かない役者で、平右衛門の様に、足軽の様な下級武士は、ニンにないと思っていたが、妹への愛情と、主への直情をうまく演じていて好感を持った。七段目の今回の、後半部分しか演じられない中では、梅玉と雀右衛門が、この舞台の陰の主役だと思った。吉右衛門が休演している間は、梅玉が代役をしたそうだが、梅玉の由良助を見てみたいと思った。