令和3年1月08日(金) 『1月歌舞伎座、三部。菅原伝授手習鑑、車引と、らくだを見る』

第3部を見る、菅原伝授手習鑑、車引と、らくだ。

菅原伝授手習鑑、車引は、この芝居唯一の荒事で、三つ子が勢揃いする場面だ。今回の車引では、松本白鸚、幸四郎、染五郎の、の高麗屋3代が、三つ子を演じるのが注目の舞台だった。。78歳の白鸚が松王丸、48歳の幸四郎が梅王丸、15歳の染五郎が桜丸を演じた。年齢差は63歳もある三つ子役で、白鸚が元気で、染五郎が成長してきたからこそできた今回の舞台だ。幸四郎、白鸚の充実度に比べると、染五郎は、まだ線が細すぎて、いくら和事風に演じると言っても、精一杯に、父から教わった通りに演じているのだろうが、動きが直線的で、柔らかさがなく、頼りない印象を持った。桜丸は、自分が、菅丞相の失脚の引き金を引いたのに、責任感があまり感じられなかった。父の70歳の賀の祝いまでは、切腹しないという腹が伝わってこなかった。声変わりなのか、声に伸びと、大きさがない。染五郎は、もっと力強い声がでるようにならないと駄目だし、更に動きに力強さが欲しいと思った。幸四郎の梅王丸は、剥き身の隈が似合って、力強かった。白鸚の松王丸はただただ立派の一言。

続いての幕は、芝翫と愛之助のらくだ。何でおめでたい正月に、死人を踊らせるラクダという演目を上演するのか、正直に言って頭をかしげざるをえない。ラクダは、落語から歌舞伎に移された演目で、死人に踊りを踊らせて、大家から酒と煮しめをださせようとする実に馬鹿馬鹿しい芝居である。色々な役者の顔合わせで観てきたけれど、三津五郎と勘三郎が演じた時の、笑いっぱなしで楽しんだことが忘れられない。正直に言って、今回は余り笑えなかった。半次役の芝翫が硬いからだ。着物の着付けも、着物初心者がきっちりと来ているようで、崩れがない。遊び人が、襟元がぴったりと張り付いたような着方はしないのではないか。セリフ回しも、世話物の遊び人なのに、柔らかさがない。真顔で怒鳴り散らせばいいというものではない。昨日一諸にフグを食べた片割れが死に、自分は生き残った。嫌われ者の友人が死んだのに、長屋では、フグに当たって死んでくれてよかったと思われている。冷たい長屋の住人、大家だと、ここに怒りを感じての、死人に踊らせて脅そうという事である。遊び人であるから、面白がって、半ば洒落でやっているのだと思う。でも芝翫の半次は、金をださないから、金をださせるため、本気で踊りをやらせているように見えて、硬直的だ。洒落の気持ちがないと、笑いが取れないと思った。だから余り笑えなかったのだと思う。半次の江戸弁と、屑やの浪花弁が、かみ合う感じがしなかったし、江戸弁、浪花弁、どちらかに統一した方が、笑いが取れると思った。江戸弁の芝翫が、浪花弁の屑やと対照的に、きつく感じたのかもしれない。愛之助の屑屋は、健闘していた。死人と踊るところはおかしかった。死人に顔を付けられた時に、浪花弁の「冷たい」が本当に冷たそうでおかしかった。後半、屑屋が酒を呑んで、酔いが回り、半次と立場が逆転する所は、唯一笑えた。

初日が二日で、今日は8日。芝居が始まって、一週間たってもまだセリフが入っていない役者がいるのは驚きだ。大家の左團次と酒屋の丁稚橋三郎だ。橋三郎は、芝翫の弟子で、抜擢されたのに、セリフを忘れ、師匠に助けられる始末。師匠の期待に答えられない、無様さで、舞台で、親方の芝翫が呆れていた。馬鹿馬鹿しい物語で、世話物だけに、間が大切で、セリフが入っていない役者がいて、そこで笑いのリズムが途切れるのは、何とも残念。役者の差し替えも必要だ。