2月18日(月)『二月歌舞伎座夜の部。熊谷陣屋、當年祝春駒、名月八幡祭』

熊谷陣屋は時代物の代表的な狂言で、吉右衛門の当たり芸を堪能した。義経の主命とは言え,敦盛の命を助ける代わりに、自分の息子小次郎を殺し、その首を差し出す武将熊谷直実の悲劇を描いた作品だ。直実は、堂々とした出ではあるが、敦盛の身代わりの首にするため、我が子を殺している。ただでさえ悲痛なのに、陣屋に妻の相模が来ている。我が子の初陣を心配する母の気持ちが直実を苦しめる。更に敦盛の母藤の方が現れ、我が子小次郎の敵と直実に切りつける始末。妻相模にも、藤の方にも本当の事を言えず、悲痛な心を押し殺す直実の苦しさが、直実の表情には見えないため、見る方に、直実の悲痛がダイレクトに来る。時代を超えて、ジーンと来るが、自分が死ぬのではなく、我が子を犠牲にしてしまう親の行動が、今の時代には、中々共感できないので、難しい芝居だと思う。ここは当時の時代背景の中で、主命には逆らえない武将の悲劇と受け止め、それを表に出さない武将の風格を吉右衛門の演技で楽しむしかない。そうした意味では、吉右衛門の熱演があって、時代物の狂言を大いに楽しめた。妻相模を魁春、藤の方は雀右衛門、義経を菊之助、弥陀六を歌六と、周りも揃い吉右衛門の充実した舞台を楽しんだ。

次に當年祝春駒(あたるとしいわうはるこま)。なんで2月なのに、1月の舞台には必ず出る曽我狂言を出すのか、疑問。富士山をバックにして白梅、紅梅が咲き誇る舞台が2月らしいが、左近の曽我五郎は、若すぎて、弱い。血気盛んな若者までいかない、年端も行かない少年では、いくらメイクで強そうな顔にしても、無理だ。舞台を踏みしめる音で、力強さを出したいところだが、踏み込む力不足で、力強さが伝わらない。熊谷陣屋、名月八幡祭に挟まれて、観客には、お眠りタイムだった。

続いて、夜の部のもう一つのメイン、新歌舞伎の名月八幡祭。主役は松緑の縮屋新助だが、玉三郎の芸者美代吉と、仁左衛門演じる情夫の三次に、さらわれた感じがした。玉三郎と仁左衛門のイチャイチャ振りが秀逸。芸者の情夫で色、愛人にしか見せない芸者の本当の心を玉三郎が歌うようにさらっと演じ、仁左衛門は芸者を手玉に取り、甘えながら金をせびり取る子悪党を笑顔で包みながら、心の奥底のニヒルさも演じていた。凄んだ時の仁左衛門の顔は本当に怖い。玉三郎と仁左衛門の二人のやり取りが、甘え、甘えられ、愛人関係の二人の身体で繋がる肉の声がして、台詞を超えて、セクシーだった。 松緑の新助は、越後の田舎の実直な商人と言う設定だが、一応江戸に行商の商いに来ている商人である。損得のそろばん勘定は出来るだろうから、いかに好きになったかと言って、美代吉には、色である三次、更に藤岡の殿様と言うスポンサーがついているのを知っていながら、百両の金を工面するから結婚してくれと要求するのは、大いに無理がある。美代吉の言葉に乗せられて、女房になってくれると、勝手に思い込み、家屋敷を売って拵えた百両を、美代吉に差し出すが、殿様から百両貰った美代吉は、もう必要ないと、突き放され、狂ってしまうと言う設定にも無理があると思う。

満座の前で、理不尽に恥をかかされて次郎左衛門のように狂うなら分かるが、美代吉の男関係を知っていながら騙されるのでは、悲劇性が薄く、新助が狂う必然性を感じない。だから観客は、新助の気持ちで舞台は見られない。田舎の商人は、江戸っ子の考え方にはついていけない、カッコ悪い男という印象しか残らない。演技の仕様で、観客の心を自分に引き寄せ、新助の悲劇を強調できそうだが、松緑の新助は、顔で実直そうに見せ、怒りの顔を見せ、狂った顔を見せるが、顔の芸にしかならず、本当に心から実直で、直情的で、騙される事を考えもしない純真さで、途方もない怒りが、人格を壊すという一人の人間の心の破叫び、破綻を感じないので、新助の悲劇が、悲劇と感じさせないのかもしれないとも思った。手練れの玉三郎の仁左衛門の色の関係が優れていて、客の視点は二人からの視点になり、新助の悲劇は、喜劇に見えてしまった。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

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