2018年6月14日(木)『六月歌舞伎座夜の部。吉右衛門の夏祭浪花鑑、芝翫の巷談宵宮雨』

 6月歌舞伎座の夜の部を観る。夏祭浪花鑑と巷談宵宮雨の二本立てである。

 夏祭浪花鑑は、吉右衛門の団七九郎兵衛、義平次は橘三郎、三婦は歌六、お辰は雀右衛門、一寸徳兵衛は錦之助、お梶は菊之助だった。

 この芝居は、色々と筋はあるが、芝居として面白いのは、主役の団七が、牢から出たばかりの、むさくるしい様子から、髪床から出ると、驚くほどのいい男になって出てくる場面と、祭りの夜、義理の父親を、誤って切り、刺青の半裸の姿になって殺害する場面の二つだ。

最初は、歌舞伎役者の顔と姿の落差で楽しませてくれる場面だ。団七が牢から釈放され、髪はざんばら、髭はぼうぼうの、薄汚い姿で舞台に登場し、出迎えた三婦から着替えを受け取り、髪床に入り、髭を剃り、髪を整えて、新しい着物に着替え、暖簾を押して舞台に再登場すると、すっきりとしたいなせな姿に、観客はうっとりとする。汚れ姿から、すっきりとした姿で舞台に再登場する場面は、主役を引き立たせる上手い演出だ。

 吉右衛門ファンからは、歌舞伎が分かっていないと罵倒される事を覚悟で書くが、吉右衛門の場合、美形ではなく、粋な風情を見せる役者ではないので、牢に繋がれて釈放された汚れ切った男が、髪を整え、髭を剃ったいい男に変身するという、その落差が感じられなかった。同じ夏祭浪花鑑を度々演じた故勘三郎は、この落差が大きく、元々溌剌としたニンのある人だったから、変身ぶりが凄まじく、観客は大喜びで、舞台に引きつけられていった。吉右衛門に、こうした落差を求めるのは、意味がない事は分かっているが、あくまで私の好みの視点なので、あえて書いた次第。

 もう一点、義理の父親殺しの場面。殺人の意思はなく、義理の父親の義平次が刀を抜いたので、防ごうともみ合いをするうちに間違って切ってしまうのだが、首筋を切った上からは、中途半端ではいけないと、いつの間にか半裸になって刺青を露出させ、何回も切りつけ、最後に馬乗りになって、とどめを刺す、泥だらけになっての凄惨な殺しの場面である。義理とはいえ、父親を殺せば、理由のいかんを問わず、市中引き回しの上磔である。誤って義父を切った団七には、驚きと悔悟、この後自分に降りかかる罰への恐怖が、吉右衛門の表情にありありと表れていて、まるで殺人事件を目撃しているようで、吉右衛門の眼がぎらついていて怖かった。もしその場で、この殺人のシーンを見てしまったら、口封じのため、その場で、確実に殺されるであろう恐怖を感じた。  

義平次は、橘三郎が演じた。吉右衛門を相手に、こぎたなく、ずるがしこく、正面から堂々と渡り合っていた。ベテランの歌舞伎役者で、この役が出来る人を他に探すのは難しいだろう。橘三郎一代の当たり芸となりそうだ。段四郎が元気ならもう一度見たいものだ。亡くなった勘三郎が夏祭浪花鑑を演じた時には、歌舞伎役者ではない笹野高史さんを招いて、義平治を演じてもらったが、いかにも憎々しく演じ、好評だった。突っ込んで演じて、団七を食うぐらいがいいのかもしれないが、脇の役者に、これを求めるのは、難しいだろう。

 こうした表向きの殺人シーンを楽しむだけでなく、夏祭浪花鑑には、被虐的な美しさを楽しむ魅力もある。義父殺しの場面で、義平次を誤って切ってしまったにもかかわらず、殺人シーンを盛り上げかのように、帯がいつの間にか解けて、全身を彩る刺青が姿を表すのである。総身の刺青に、赤い締め込み姿で、立ち回りを行い、義父を惨殺するシーンである。この芝居が、江戸時代から好評だったのは、人気役者が刺青姿の裸になり、殺しのシーンを見せつける、被虐的な美しさと、生身に刺青姿というエロチックなところが大きいと思う。江戸時代の人は、リアルな殺しの場面ではありながら、一突きで、あっさりとは殺さない、長時間をかけて殺すシーンが好きで、作者は、そこに官能的な美を加えて、延々と見せ、観客を喜ばせる工夫をする。夏祭浪花鑑は、そこが魅力だと思う。

で、このように赤い褌に刺青姿の団七九郎兵衛が、義平次を殺す場面は、エロさを感じるものだが、吉右衛門の肉体に魅力がないため、刺青の肉襦袢がのらず、エロさは全く感じなかった。団七九郎兵衛は、侠客とはいいながら、不良がかった魚屋であり、はちきれんばかりの肉体を持ち、壮健な裸を彩る刺青を持った男のはずである。吉右衛門は、痩せた老人の肉体で、裸に魅力がなく、刺青も作り物めいて、殺人を犯す悲壮美やエロさが感じられなかった。役者の肉体が魅力の一つになっている団七九郎兵衛は、もう74歳の吉右衛門には無理ではないかと思った。

巷談宵宮雨は、怖かったの一言。いままで歌舞伎で、怪談物はいくらも観てきたが、一番怖かった。作者宇野信夫の腕が光る芝居だった。芝翫初役の竜達は、メイクが怖さを引き立たせたが、皮膚病に加えて、蚊に刺されてかゆくなる辺りは、話し方が、志村けんが演じるバカ殿さまのようで、恐怖への序章としては軽すぎる。色々なシーンで、軽さが出て恐怖心が高まらない。寺に埋めた100両の金を自分では掘りに行くには難しく、甥の太十に掘り起こして持って帰って欲しいと、頼もうとするが、もしかして持ち逃げされる心配もあるので、逡巡するシーン。金を掘り起こしてもらって、手に戻った百両の金を数えるシーン。お礼の金をいくらにするか迷い、いやいやお礼に2両を渡す場面など、竜達の厭らしさ、せこさ、欲にまみれた人物像をたっぷりと見せないといけないのに、全般に、コミカルで、軽すぎて、竜達の人物像が、明確にならない。もっと悪逆で、性悪で、色好きな竜達でないと、こんな男殺されても仕方がないと、観客は、思はない。このためか、殺されて化けて出る怖さが薄まる感じがした。それでも、十分に怖かった。