2018年1月24日(水)『歌舞伎座、初春大歌舞伎、昼の部菅原伝授手習鑑、車引、寺子屋』
箱根霊験誓仇討、七福神は仕事で観ることが出来ず、菅原伝授手習鑑の車引と寺子屋を見る。
菅原伝授手習鑑は、義経千本桜、仮名手本忠臣蔵と共に、歌舞伎の三大傑作と言われている作品である。今回は、このうちの、車引と寺子屋で、特に寺子屋は、よく出る演目である。車引は、筋はどういう事もなく、長男梅王丸、次男松王丸、三男桜丸の三人兄弟が揃って舞台に出て来る。
梅王丸は菅丞相の舎人、松王丸は藤原時平の舎人、桜丸は斉世親王の舎人をしていたが、桜丸が斉世親王と、丞相の幼女苅屋姫の中を取り持つが、露見して、丞相失脚の原因を作ってしまう。梅王丸と桜丸は、舎人の仕事がなくなり、失業中である。この二人が、往来でばったり会う。
桜丸と、竹王丸が登場して、舞台中央で、被り物をつけて、ばったり出会う、そして親王や管丞相の身の上などを、涙を流しながら話す。そこに時平の牛車が来る。恨みを晴らそうと、梅王丸と桜丸が襲い、牛車を壊そうとすると、時平の舎人の松王丸が止めに入る。
梅王丸は、菅原道真に仕え、同じ兄弟だが、松王丸は、道真の政敵、藤原時平(しへい)に仕えている処が、ポイントとなる。桜丸と、松王丸が、時平が乗る牛車を壊す。中から時平が現れ、二人を懲らしめる所だが、松王丸に免じて許してやる処で、三人が舞台中央で決まって終わる。まあ、この幕は、三人の兄弟の派手さと、役者を堪能する処だ。
桜丸が七之助、梅王丸は勘九郎、竹王丸は幸四郎。年齢的に、三人が揃っていて、見映えがした。七之助の柔らかさは女形だから仕方がないが、なよなよと見えるのはどうか。桜丸も、牛車を壊す位の暴力性を持った漢なのである。桜丸は、もっと、きりっとしていていいのではないだろうか。梅王丸は、勘九郎の顔の隈取が綺麗で、強さが引き立つが、固い感じがした。幸四郎は、声がくぐもって聞こえ、出からして荒事になっていない。松王丸は、後に寺子屋で苦悩する父親役を演じるが、ここでは、松王丸より強さがあっていいと思うが、勘九郎の松王丸に負けている感じがする。
注目は、寺子屋.猿之助が、よだれくりにでて、骨折から立ち直り、元気な姿を見せる。メイクの仕方も上手く、しゃべり方も少年を意識していて、遠くから見ると、少年のように見える所が、芸なのだろう。猿之助恐るべし。舞台が完全に、猿之助ワールドになり、寺子屋の本筋がかすんでしまう程だった。観客は、猿之助の主役での復帰を願って大拍手、澤瀉屋の声が飛び交った。
私はこの寺子屋は、本当は、好きではない。いくら主君の子供管秀才の替わりとはいえ、自分の経営する寺子屋に入門してきたばかりの少年の首を刎ね、秀才の身代わりにするのは、いかに封建主義の時代であっても、その時代の忠義の為といえども、付いていけない
し、この悲劇に涙が出ない。
ドラマとしてはよくできている。武部源蔵は、管丞相の一番弟子で、丞相から女問題で破門されるが、筆法の伝授を受けて、寺子屋を経営している。そして子供達を教えながら、恩義のある丞相の息子管秀才を匿っている。しかし時平の追及の手が伸びて、源蔵に、秀才の首を差し出せと命じる。
花道を、源蔵が、思案を巡らせながら歩いてくる。弟子に秀才に代わる少年はいない。寺子屋に戻ると、秀才に引けを取らぬ少年が入門してきていた。これで、秀才の代わりに首を差し出せる。ここで、秀才の命を助けるためなら、他人の息子を殺しても仕方がないと、考える所が恐ろしい。ここに、春藤玄蕃と松王丸が、やってきて、秀才の首を差し出せと迫る。入門してきた子供は、実は松王丸の子供だった。
松王丸は、源蔵がわが子の首を討って、秀才の代わりに、差しだすことを想定して、わが子を入門させたのだ。源蔵と松王丸の心の葛藤が、この舞台のメインである。でも源蔵には、他人の子供の首を刎ねて、秀才の代わりにする事に、ためらいを感じさせない。松王丸は、わが子が、秀才の代わりに首を刎ねられる事に、疑いを持たない。このあたり、ぶっ飛んでいて、いかに封建性の時代とはいえ、理解に苦しむ。
白鷗の松王丸は、籠から出て来て、舞台上で観客を向くだけで、大きいなと感じた。衣装が、車引の時に比べて、派手派手で、なぜこうも豪華賢覧な衣装を着る必要があるのが、気になるが、一大悲劇の中心人物なので、せめて衣装は豪華にと言う所なのだろうか。出から終始うつむいて、目は伏し目がち、時折、咳き込んで、病気の呈である。何も言わなくても、悲劇の主人公らしく見える。これも芸なのであろう。松王丸は、菅丞相の息子の身代わりにするため、自分の息子を源蔵にあずけ、源蔵の家に乗り込んで来る。この時点では、まだ息子が身代わりに殺されたのか、息子は殺されておらず、菅丞相管の息子を斬ってしまったかは、分かっていない。寺子屋には、机が八つ、出てきた子は8人、この中に、わが子はいない。そこで、早く菅丞相勘の息子を斬れと迫る。源蔵は、部屋の奥に入り、えいっと、と声が出る。この瞬間に、わが子が死んだのか、菅丞相の実の息子が殺されたのか、99%はわが子だろう、でも1%は違うかもしれない、この心の揺れが、全くでてこないのはどうしてなのだろうか。首桶が出てきて、蓋を開けた瞬間に、菅丞相管の息子に間違いない、と言う時に、顔が引きつったように、ガラッと表情が変わるのだが、ここに至るまでの、心のドラマが、幸四郎は、無表情すぎて、ドラマになっていないと感じた。
一方の源蔵は、出から品格を漂わせて歩いてくる。何も言わないが、身代わりになる子供もおらず、山家育ちの品のない少年ばかりで、どうしようもない手詰まり感が漂ってくる。これも芸だろう。受けの芝居を、さりげなく進める技は見事だ。首実検でも、刀を左に置き、「いつでも切るという殺意はありながら、それを強くは出さない。竹王丸が家を出た後に、ほっとするくだりは、自然でいい。梅玉は、雰囲気で何もかも、らしくみせてしまう役者だ。
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