2017年12月9日『12月歌舞伎座第三部、中車の瞼の母と、玉三郎の楊貴妃』

 平成29年を締める、歌舞伎座大歌舞伎。今月は、若手に主役を譲り、3部制で行う趣向だった。第三部は、中車の瞼の母と、玉三郎の楊貴妃の2作品。瞼の母は、勘三郎、幸四郎、松緑で観たが、中車の瞼の母は、初演なので初めて、玉三郎のお浜も初演である。

 長谷川伸の新作歌舞伎なので、中車には、腕の振るいどころで、玉三郎演じる,産みの母のお浜とのやり取りは、迫真的であった。涙を浮かべながら、あなたは母ではないかと、訴えかけるところは、聞かせた。常に、涙を浮かせながら切々と訴える忠太郎に、こちらも涙が、滲んできたのではあるが、こんな切々と、訴えかけられては、おしつけがましくなる。演ずる側には、観客が泣くスペースを、計算してくれる、すこし醒めた面を持っていないと、歌舞伎の味が薄くなり、歌舞伎の中に入っては行けない。観客に涙を絞る時間的な余裕が欲しいと思った。

お浜は、玉三郎の初演。断固として忠太郎を拒否するのではなく、咽元まで、お前は私の子供だ,と言いたいのだが、娘の結婚話の邪魔になってはいけない、娘可愛さのため、自分が作り上げた家を守るため、終始、お浜は、おまえは、私の子供ではないと、言い張るしかないのである。このお浜の心の中にある、二つの心が、玉三郎の表情と、途切れ途切れに話を進める台詞術で、観客に、お浜の心の苦渋を感じ取らせる。流石だと思った。

同じ腹を痛めた子供でも、20何年、行方知らずだった息子より、生まれてからずっと一緒だった娘のほうが、大事だというのが、よくわかるだけに、この話は辛い。忠太郎の心の痛みより、お浜の痛みの方が、演ずる役者の力量が上なので、見る側はどうしてもお浜に心が動いてしまう、忠太郎の物語ではなく、お浜の物語に変わってしまうのだ。

お浜は、訪ねてくるなら、なぜ、やくざになって来るんだ、と問うと、忠太郎は、父に死なれ、母が行方不明の子供が生きていくためには、やくざになるしかなかったと、心の中から搾り出すように語る。ここは、心にじんとくる。人情は、寄って立つ基盤で変ると言うことを痛感した。結局最後の最後まで、お浜は、親子と認めることはなく、忠太郎は、もう会わないと、啖呵を切り、家を出る。その後、娘が、お浜に、「もしかしたら兄さんじゃない、顔が似ていた』と言われ、一気にお浜の気持ちが崩れ、二人で、忠太郎を追うのだが、二人の声が聞こえても、忠太郎は、姿を見せず、姿を消すのであった。

 二つ目の演目は、玉三郎の、楊貴妃。何度か観た、夢枕獏さんが作った新作舞踊である。唐の時代、玄宗皇帝に愛された楊貴妃は、安禄山の変で殺されたのだが、楊貴妃を思う玄宗皇帝は、仙術を使う方士に楊貴妃の魂を探すように命じる。玄宗の手紙を持った方士は、蓬莱山の宮殿に向かい、楊貴妃を呼び出すと、楊貴妃の魂が、生前の美しい姿で、姿を表し、玄宗の手紙を読んだ楊貴妃は、在りし日の美しい姿で、懐かしい日々を思い、踊ると言う幻想的な舞踊である。が、こんな能書きは、別にどうでもいいのである。中国風の衣装に身を包み、頭には、硝子の小片が、きらきらと、輝く冠をいただいて、京劇風に舞う姿は、惚れ惚れするくらいに美しく、二枚の扇、(模様は極めて日本的だが)、を使い、ゆったりと舞う姿は、美の化身であり、現在の歌舞伎界では、その美しさは、比類がなく、若手花形も、遠く及ばず、同世代の雀右衛門、時蔵,魁春にも演じられぬ演技であると思う。玉三郎の美しさを、短時間であるけど、堪能して、歌舞伎座を出ることができた。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

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