2017年11月13日(月)『11月歌舞伎座、吉例顔見世大歌舞伎、仮名手本忠臣蔵の五段目、六段目。新口村』

 歌舞伎座の夜の部、吉例顔見世大歌舞伎を観る。今月は、吉右衛門、幸四郎、藤十郎、仁左衛門、雀右衛門が揃い、大看板が、自分の持ち役を演じると言う、歌舞伎ファンには、魅力溢れる舞台が揃った。

 夜の部の最初は、仁左衛門の勘平で、仮名手本忠臣蔵の五段目、六段目。鉄砲渡しの場、二つ玉、切腹の場である。

 鉄砲渡しの場は、花道から勘平が出てくるだけで、じわが起きて、歌舞伎座が華やぐ。雪の降る太鼓の音が、その後の運命の暗転を予告するように、どーんどーん、と暗く重く響く。仁左衛門が、顔を少しうつむけ、憂いのある表情で、花道を歩くと、悲劇の主人公は、細身、長身の色男でなくてはならないと、確信が走る。雨で、火縄銃の縄の火が消えるあたりの演技も計算されていて、憂いが残り、優しい貴公子然とした姿を見せる。舞台中央で、武士とすれ違い、火を貸して欲しいと頼むと、かつての仲間である先崎弥五郎であった。勘平は、弥五郎に、仇討ちのメンバーに加わりたいと、切々と訴える。不忠にも、主君の大事に、お軽と、しけ込むという大チョンボをしでかし、それを承知で、討ち入りのメンバーに加わりたいと言う切々とした思いが、胸を打つ。美男だと、悲劇が引き立つ。

 二つ玉。花道を、舅がよぼよぼと歩いてきて、稲佐の前で、休息していると、娘を祇園に売った金を、後ろから斧定九郎が奪い、殺害する。染五郎の定九郎は、これも美男だから、白塗り、黒の着物が良く似合う。五十両、のセリフも、重くていい。定九郎は、稲佐の後ろに隠れ、猪が舞台下手から、上手に走る。遅れて、勘平二度目の登場。バーンと一発、銃声。一発しか、聞こえないのに、なぜか二つ玉と言うのか不思議。撃ったのは、猪ではなくて、定九郎だった。定九郎の懐から手にした金は、五十両。舅が、娘を売った金の半金である。この段階では、この50両が、何の金か勘平は知らない。懐から金を引き出し、紐が絡んで抜けない、ここで、血の付いた縦縞の財布が注目しろとばかり、目につく。この財布が運命を暗転させるキーになる道具である。筋がややこしくなるが、舅が娘を売った半金五十両を、定九郎が、舅を刀で刺し殺して奪い、その定九郎を、勘平が猪と間違って、銃で撃ち殺し、懐から50両を盗んだのである。50両が入った財布は、祇園の一文字屋お才の着物の端切れで誂えた財布で、同じ柄の財布が二つあり、舅にはその一つを包んで50両を渡し、お才が、お軽を引き取りに来た時、半金の五十両を渡した時にも、同じ柄の財布に入れて、金を渡したのである。舅が死んで漁師に運ばれてくるが、舅は、あくまで刀で差されて死んだので、鉄砲で撃ち殺されたのではない点も、悲劇に重くのしかかってくる。このように、作者が、悲劇のポイントを、観客に示しているので、舞台で悲劇が展開されると、主人公が追い詰められ、腹を切るところまで、ハラハラしながら、舞台を見続ける事になる仕掛けである。

 勘平が家に戻ると、丁度、お軽が籠に乗り、連れ去られるところだ。「漁師の嫁が籠でもあるめえじゃないか」という言葉で、お軽は部屋に戻される。定九郎と知らず、50両を奪った勘平は、すぐに矢五郎の後を追い、金が出来たので、討ち入りの仲間に入れて欲しいと頼み、矢五郎と不破数右衛門が家に来ることになっている。勘平は、浅黄色の紋服に着替え、二人を待つ事にするが、懐から血の付いた財布を落とし、義理の母親のおかやがみとめる。おかやからすると、見慣れぬ財布、しかも血で汚れた財布をいぶかしく感じる。はやくも勘平への疑念が生まれる瞬間だ。ここも例の縦縞の財布が効いている。このあたり、母親役の吉弥の演技が手ごわい。勘平は、終始、うつむき加減で心に疚しさを、隠し持って老いる演技をするが、少しはにかんだようにも見えて,抑えた演技で、振る舞いに優雅さを感じさせる。

ここでもやがて来る悲劇を前に、勘平は美男でなくてはならないと痛感する。でっぷりと太った勘平では、悲劇性がでてこないのである。ここで、舅の遺体が漁師によって運ばれてくる。おかやは取り乱すが、舅が死んだというのに、嘆くわけでも怒る訳でもない勘平に疑いの目を向ける。そして勘平の懐から財布を取り出し、お前が殺したんだろうと詰問するのである。仁左衛門の勘平は、このあたりの苦しさを、ござを手で引き寄せる芝居で、見せる。とここに弥五郎と、数右衛門がやってきて、討ち入りの仲間に入れる事は出来ないと断る。おかやは、亭主を殺した奪った金で、討ち入りに加わろうなんて許せないと、叫ぶ。こうして、勘平は追い詰められて、刀を腹に突き立て、最後に、言い訳をする。誤って猟銃で、舅を殺してしまった、50両は、お軽を売った金であったとは思わなかったと、述懐する。腹に刀を突き立て、顔を拭うと、手についた血が、右の頬にべったりとつき、「色に耽ったばっかりに・・・・」という、名セリフへ続いていく。ここでも、若くして不条理の中で死んでいく若者は、美しくなくてはいけないという鉄則を感じる。切々と訴える、苦痛にゆがむ顔が被虐的に美しい。ここで、数右衛門が、舅の死体に動き、死因を確認すると、銃ではなく、刀で差されて死んだ事が分かる。もっと早く、死体見分すれば、勘平は死なないで済んだのにと思うが、それでは芝居にならない。瀕死の勘平に、舅の死因は、刀傷で、銃で殺されたものではない、そういえば、ここに来る途中に、斧定九郎が銃で撃たれて死んだ姿を見たと話し、一気に、敵のスパイになった斧孫衛門の息子を殺したことは、手柄だと言う事急転直下になり、勘平は、討ち入りの連判状に名前を連ね、血判を押して、死んでいくのであった。仁左衛門の勘平は、無情にも、死んでいく憐れな役を、観客を涙へと引っ張りながら見せていく。悲運の若者は、やはり美男でなくてはならないのだ。

 勘平とお軽の悲劇は、お軽の家族の崩壊劇でもある。塩谷判官一家の崩壊、大石一家の崩壊、様々な家族が、殿様乱心で悲劇が次々に起きる、この芝居を観た人間の心には、馬鹿な上司を持つと悲劇が起こると言う事を、暗に示し、少しくらい暗君でも、暴君でも、他へ与える影響が小さければ、明君なのだ路と主張しているように思う。

 この複層する悲劇の中で、勘平は、色男で、色好みで、多分主君の塩谷判官からも寵愛されただろうから、美男でなくてはならないのだ。仁左衛門の勘平は、表情、佇まい、悲しみを浮かべた表情、絶望を表した体の動きで、悲劇性が、一層高まり、涙を誘うのである。

 新口村は、藤十郎野忠兵衛、扇雀の梅川、歌六が孫衛門。藤十郎は、さすが容色は衰えたが、無表情の中に見せる親への愛情と、悲しさが溢れていた。扇雀も、雪の舞台の上で、黒い着物が引き立てたのか、美しく見えた。歌六が、藤十郎を相手にして、引けを取らない手ごわさをみせた。

 孫衛門が登場し、鼻緒をきり、梅川が鼻緒をすげかえるが、これを家の中の窓から見ている藤十郎,戸を半分空けて、父の姿を見る姿が、父への愛情を強く感じて、心を打たれた。半分空けた戸の前には、三本縦に細い木が仕込まれていて。この細い棒を、右手で掴んだり、左手で掴んだり、両手で掴んだり、様々に棒を持ち換えながら、さほど表情は変えずに、父を見続ける芝居をする藤十郎が、美しく感じた。棒を持ち替えるだけで、持つ手の優しさ、優雅さ、悲しさまでだすのである、役者の芝居は、なにも身体を動かして、大芝居をするのではなく、こうした地味な演技ではあるが、心を打つものだと痛感した。さすが藤十郎である。