2017年4月25日(火)『歌舞伎座四月大歌舞伎昼の部、醍醐の花見、伊勢音頭恋寝刃、一谷ふたば軍記』

4月興行が明日千秋楽なので、今日の休みに、昼の部を見に行った。

4月大歌舞伎は、醍醐の花見、伊勢音頭恋寝刃、一谷ふたば軍記の3本だ。

醍醐の花見は、初めてみたが、慶長3年、1598年3月、豊臣秀吉が、醍醐寺で開いた花見を題材に、大正時代に作られた長唄の舞踊劇である。桜の下で、色とりどりの小袖に身を包んだ女性が、舞台に溢れ、豪華な舞台となった。入れ代わり立ち代わり、踊る趣向だが、どうでもいい踊りの連続で、観客が飽きると思たのだろう、一天俄に掻き曇り、亡霊となった秀次が表れ、秀吉を襲うと言う趣向を入れたが、どうにもならなかった。はっきりいって面白くもなんともなかった。見なくてもいい舞台だった。秀吉が、鴈治郎では、ニンに、まったく合わない。デブの秀吉など、聞いた事がないし、見た事もない。どちらかと言うと、鴈治郎は、家康に似ていても、秀吉には全く似ていない。舞台でにこにこ笑っているだけで、能がない。笑也が、局を演じていたが、踊りの順番を争い、口を尖らせて、ぷいと横を向く演技は、まるで、つまらぬテレビの若手女優のようで、芸がない。視線一つで、女の戦いを演じなくてはいけないのではないか、笑也も、その位の進歩がないと、この先、使われるチャンスが少なくなると、心配になる。猿之助を見習うべきだ。

 伊勢音頭恋寝刃は、これまで何度も見たが、やはり仁左衛門の貢が一番印象に残っている。仁左衛門の貢は、自分の刀の置き場所を忘れる位で、一応武士ではあるが、刀の扱いに慣れず、女好きだが、剣の技には、たいして興味がなく、万野の言葉責めに反応してしまったり、代わり子のお鹿の言葉にも、毅然と対応できない、上方のつっころばしのような柔らかな雰囲気で演じている。その貢が、青江下坂を手にした途端、妖刀の魔力で、次々に人を切っていくという意外な展開が、面白い芝居となっていた。

さて染五郎の貢である。貢は、主筋の万次郎のために、お家の宝、青江下坂という名の刀と、鑑定書である折紙を探している。貢は、伊勢神宮の、御師(下級の神官)、現在で言えば、参拝客をもてなし、案内するツアーガイドと言う職業だ。長身で、いい男なので、女郎には、モテモテである。仁左衛門に比べてみても、染五郎の貢は、女にもてそうで、品のあるたたずまいは、ニンにあっていた。染五郎は、長身で、白塗りの顔が綺麗で、私は、いいと思ったが、万野の言葉責めに、性急に反応し過ぎて、怒りっぽい造形に思えた。万野に責められている時に、怒りのあまり、手持無沙汰になるのは、仕方がない所だが、これでは、イライラが爆発して、怒って万野をはじめ多くの人間を叩き切る感じになり、もう少し,じっくりといたぶられる感じが欲しいと思った。あくまで、妖刀の魔力で、大量の人切りをする段取りにしないと、舞台が楽しくない。佐野次郎左門ではないのだ。見得は、綺麗で、形にはまり、ポスト、仁左衛門、梅玉を考えると、貢は、染五郎の次代の持ち役と言う感じがした。

 万野は、猿之助の、下卑た、いやらしい目付き、意地の悪い目付きがうまい。遊廓のやり手婆とは、こんな手合いだったのだと、想像力を掻き立てる。うまい万野だ。顎も使わず、目のやり場、目つき一つで、意地悪さを掻き立てるのは上手い。醍醐の花見で、笑也が、他の局と、踊りの先手を争い、ふんと、顎をしゃくって、意地悪さを強調する演技をしたが、こんなに顎をしゃくって見せなくても、意地悪さを出せるのは、さすが猿之助だと思った。お鹿の万次郎も、器量には恵まれず、少し頭が弱そうだが、男のために、一途につくすタイプの女郎を、楽しく、悲しく演じていた。ただ年齢的に会っているのは、万次郎役の秀太郎のみで、染五郎、梅枝、松也、猿之助など、若い座組なので、多少浮いて居た感じもした。

 喜助は松也、いつも何をやっても、同じ表情、同じセリフなのに、喜助役は、表情もあり、キッツパリと演じて、粋な雰囲気をよく出していた。でもなぜ、伊勢で仕事をしていて江戸弁なのか、前後が分からず不思議だった。

 お紺は梅枝、綺麗な役どころで、しかも縁切りをする、女形の見せ場があって、美しく、こんな女なら、貢が惚れてしまうのも仕方がないと言った所だ。

最後は、一の谷ふたば軍記、熊谷陣屋である。幸四郎の直実は何回も見たが、完全に、幸四郎の手の内に入って、安定していて、楽しめた。ただ、出から堂々と花道を歩いてくるが、こんな元気だと、悲劇性が薄くなると思った。もうこの時点では、息子の首を切っている訳で、内の悲しさは、ないのだろうか。更に、直実の顔を赤く塗りすぎていて、これまでの幸四郎の直実で、一番赤いと思うが、あまりに赤すぎて、何で?と思った。あまり顔を赤く塗ると、悪役になるので、いかがかと思った。木戸の外で、草履を脱いだが、これもおかしいのはないか。

これまで、この舞台の主役は、直実で、幸四郎が演じると、ただ一人、大芝居をしているように思ったが、舞台上で、妻の相模、敦盛の母、藤の方を時折目配りして様子を覗うところに、細心の注意を感じた。女房が騒げば、ウソがバレてしまうので、この当たりの用意周到さは重要だ。幸四郎の直実は、ニンにあり、堂々としていて、立派で、名調子、角々の見得のすっぱりと聞いた所は、現在の熊谷であると思う。

三度目の出で、頭をまるめ、僧になって、旅立つ場面では、花道に出て、「十六年は一昔、夢だ、夢だ」と語る所は、舞台に義経たちと並んで終わる芝翫型より、花道に出て思い入れをする型の方が、見る側は、直実に集中できて、直実の悲しみが良く分かるように思った。ただ花道七三で、編み笠を被った後、観客狙いに、顔を上げる仕草は、観客受けを狙おうという事だろうが、そんな仕草をしなくても、観客全てが直実を観ているので、必要ないと思った。主人の命で、敦盛の代わりに我が子の首を取らなばならなかったことで、武士に嫌気を感じ、人生の儚さを強く感じて、僧になった直実の悲しさ。観客は、熊谷の泣き顔を見に来たのではなく、武士の世界の、不条理に泣きたいのに、お涙頂戴式の見せ方はいかがかと思った。

この舞台でも、目を引いたのは、相模を演じた猿之助である。先程の、地のイメージで演じた万野と打って変わって、時代物の、直実の妻で、敦盛の代わりに首を刎ねられた小次郎の母と言う役どころを、時代物の型にはめながら、神妙に演じて、存在感を見せつけた演技だった。元々猿之助は、女形からスタートし、女形としての様々な役を演じてきたが、時代物の規格にぴたりと、はめる演技が出来るのは素晴らしい事だ。猿之助は、真女形としても、活躍できる下地があると思った。

高麗蔵の藤の方は、幸四郎が直実の時には、何時も務めているので、安定していた。中堅俳優から、卒業して、主役を張れる力が出てきていると思う。猿之助の、時代物の中の女形と言う、規格が決まっている役どころを、目いっぱい工夫して見せるやり方もあれば、高麗蔵のように普通に演じて、それらしく見せる、見させるという生き方もあるのだと思う。