2017年3月25日(土) 3月歌舞伎座、海老蔵の助六、引き窓、けいせい浜真砂、助六由縁江戸桜』

 三月歌舞伎、夜の部は、海老蔵の助六が眼目だ。演目は、引き窓、けいせい浜真砂、助六由縁江戸桜の三っである。

 引き窓は、何度も見た演目であるが、親子の情、義理の息子への義理が重なり合って、まさに情けと義理の集大成だった。今月の岡崎の隠隠滅滅とした芝居と比べると、最後に、長五郎を逃してやるという、日本人のとっては、予測通りの、最善の選択をする芝居は、涙腺が緩む。

 山城の国のある里に、南与兵衛、女房のお早、義理の母お幸、が住んでいる。南与兵衛は、郷代官に取り立てられるために家を出ている。そこに、お幸の前の亭主との間に出来た実子濡髪長五郎が4人を殺して、会いたいと訪ねてくる。ここで、久し振りの母親と、実子の情愛が描かれる。そこに郷代官に取り立てられて、武士となった南与兵衛が帰宅する。黒い紋入りの羽織、腰には二本差し、与兵衛は、侍の姿で、意気揚々と、帰宅する。ここで、義理の息子の帰りを待つ母と、妻が、南与兵衛の出世の幸せを我がことのように喜び、一家の情愛が描かれる。ここで石鉢の水に映る二階の部屋にいる濡れ髪長五郎を与兵衛は見つけてしまう。与兵衛の武士としての最初の仕事は、長五郎を捕まえる事だったのだ。与兵衛が、人相書きを母に見せると、母は、人相書きが長五郎と分かり、自分の永代供養のために貯めた金を与兵衛に差し出し、人相書きを売って欲しいと申し出る。これで、与兵衛は、長五郎が家にいる事が、はっきりと分かり、長五郎が、義理の母の実子であることを知る。なんとしても長五郎を逃したい母、与兵衛が、探索のため家を出た後、長五郎と、母の言葉のやり取りで親子の深い情愛が描かれる。長五郎は、母に縄をかけてもらい、与兵衛の初手柄にしろと言う、母は助けたい思いで、前髪を剃って髪型を替え、高穂の黒子をそり落とそうとするが、亡き夫の形見の、黒子を剃ることが出来ない。引き窓の縄で、長五郎を縛り、与兵衛に差し出そうとするが、そこに与兵衛が、礫を投げ、ほくろが落ちる。与兵衛は、時刻をわざと間違えて、自分の侍としての仕事は、夜の間だけ、昼間は普通の町人だと言い、長兵衛を逃してやる。夫婦、姑と嫁、母と実子、母と義理の息子、義理の兄弟、こうした姻戚関係にある四人の、義理と人情の心の葛藤が描かれる。結局、与兵衛は、長五郎を逃してやるのだが、そこに至る、四人の心の動きが描かれていて、日本人を泣かせる、良くできた芝居だ。幸四郎が、与兵衛を、気持ち良く演じていて、町人と武士の優しさを、きっぱりと出して、好演した。ただ何時ものように聞き取りにくいセリフもあったのだが、心で聴かせる台詞は、多少聞こえなくてもいいのだなと、妙に納得してしまった。

弥十郎は、姿形の大きな役者で、長五郎にはぴったりとニンに会う役なのだが、関取としての大きさを出そうと意識しすぎて、人情の機敏さを出すまでにはいかなかった。妻お早の魁春はそれなり。母お幸は右之助だが、実子に対する母の情感、義理の息子への、申し訳なさが、舞台に溢れ、好演だった。

 けいせい浜真砂、別名、女五右衛門と言われている。山門五山桐の南禅寺山門の場面の、女版の書き換え狂言で、石川屋砂路を藤十郎、真柴久吉を仁左衛門が演じた。衰弱著しい藤十郎が、華やかな衣装に身を包んで、登場したが、顔に精気を感じず、おまけに台詞が聞こえず、衰えが激しかった。戦後昭和第一世代最後の生き残り、藤十郎の最後の舞台になるかもしれず、涙が別の意味で出てきた。

 最後が海老蔵の助六、初演から毎回見てきたが、今回余裕は感じられるが、吉原でモテまくる色男を、演じすぎて、助六のイメージが軽くなり、敵討ちの刀詮議が狙いなのに、イメージが狂った。團十郎の持って居た助六の重さがどこにもない。不良のイケメン息子が、遊廓で遊んで、爺さんをいたぶっている感じにしか見えなかった。親の敵を討つのだという、心の意識、腹がないから、表面だけの見せ方に終始する。軽すぎて、重みがない。とはいえ、まあ、この芝居は、筋らしい筋はなく、助六のカッコ良さを見せる芝居なので、美しく、格好がいい海老蔵にはまり役で、うっとりと見ることができ、ミエも綺麗に決まり申し分はなかった。

意休は左団次、本役で安定感あるが、もうそろそろ違う役者で、意休を見たい。歌六はどうだろう。右團次もいい。雀右衛門は、女郎の張りをよくみせていたが、美しさに限界があり、玉三郎の揚巻には、遠く及ばない。菊之助、梅枝が演じたらと思った。歌六がかんぺら門兵衛、国立と掛け持ちだが、岡崎をやっている中、無理はしない方がいいと思った。何も、歌六でなくてもいい役だ。歌六を呼んで来るのなら、意休をやらせたらよかったのにと思う。母の満好は、東蔵ではなく、秀太郎が演じ、好演した。