2016年2月7日(日)『歌舞伎座2月興行夜の部、籠釣瓶花街酔醒』

今月の歌舞伎座の夜は、当代吉右衛門の当たり役、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)を観た。吉右衛門の次郎左衛門、八つ橋は、菊之助という初顔合わせ、楽しみな芝居だった。

菊之助の八つ橋は、出から非常に美しい。持って生まれた美しい顔立ちそのままに現代的な美女の花魁だ。美女というより美少女に見えてしまうのが、やや難点だ。花魁という存在は、吉原のトップに君臨する最高級の売春婦で、ただ性を売るだけでなく、知性教養も求められる、吉原の世界では、崇められる存在なのだ。吉原の社会経験を積んで、男との立て引きにも慣れ、愉しく遊んでもらう術、客に金を大量に使わせる、したたかさも併せ持つ存在であって、決して初心な娘ではないのだ。菊之助の出は美しいのだが、美少女の出で。花魁の出には感じなかった。妖艶な最高級の売春婦である花魁の出ではないのである。だから、花道七三での、次郎左衛門にむけての謎の笑いが今一つ聞かない。妖艶さがないのである。笑顔の下の、これから始まる、どろどろとした愛想ずかしをうかがわせる、売春婦の内実を見せる肉感がないので、これでは、縁切りから、殺人事件へと回っていく、どろどろ感がないと思った。

次郎左衛門の吉右衛門は、顔のあばたが、より一層増えた感じがするし、左の頭の前の部分が、少し禿げているようにみせる工夫をしている。いつもは時代物で、型どおり、きちっとした芝居をする吉右衛門が、思い切り弾けて、コミカルに田舎の絹商人を演じている。この後に悲劇がまちうけているので、ここは、徹底的にコミカルに演じていい場面だ。次郎左衛門が、八つ橋を見染める場面では、身体を低めに折って、ボケっと八つ橋を夢中になって眺めている姿、ぽっと顔が赤らんでくる顔の表情、口を横に開けて、最後には、よだれが流れ落ちそうな、口を半開きにした表情が、絶品だった。最初の見染めの場は、吉右衛門のコミカルな面を強調した演技で、この後の惨劇が、ここで出会わなければ、何事もない人生を送ったのに、花魁道中に出くわし、たまたま八つ橋を観たために、人生が大きく変わってしまう、次郎左衛門の悲劇、更には八つ橋の悲劇が、一層強まったと思う。

縁切り場でも、菊之助は、淡白で、いくら間夫の栄之丞に、強く縁を切れと言われたにせよ、次郎左衛門に、多少済まない、という気持ちはあるだろうに、次郎左衛門を冷たく突き放していて、揺れ動く花魁の気持ちが、全く出てこない。間夫にいわれるから、仕方がないのよとばかり、私には責任がありませんと、言っているようなものである。淡白を通り過ぎて、非情に思わせる。情の逡巡がないと、次郎左衛門の悲劇ばかりでなく、花魁の悲劇性も出てこない。次郎左衛門の身請けを断った後、次郎左衛門が狂わなければ、八つ橋には、どんな未来が待ち受けているのだろうか。果たして栄之丞と、仲良くやっていけたのだろうか。

最後、殺しの場は、吉衛門の目が、怒りにメラメラ燃え上がり、異様な状態に陥っている眼差しが、遠くからも、目が光っているようにも見え、八つ橋を殺した後、「籠釣瓶は、よく切れる」、という言葉が、狂気の言葉として、腹に落ち、あんな女郎は、殺した方がいいと、いつのまにか、次郎左衛門の殺しを、肯定している自分がいて、怖くなった。観客に、こう思わせる、これが吉右衛門の芸の力なのだと、思った。国立劇場の伊勢音頭恋寝刃の貢に欲しい、気狂いが、梅玉にはなかったが、吉右衛門の目には、狂気が確かに宿っていた。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

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