2016年1月26日(火)『浅草歌舞伎夜の部、毛抜き、四の切』

巳之助の毛抜き、松也の四の切の二演目。本当は、もっと前に見るはずだったが、風邪で行けず、とうとう千秋楽の観劇となった。お決まりの、お年玉挨拶は、松也で、ラッキー、白塗りの顔は、目元涼しく、まさに二枚目、ただふっくらし過ぎであるので、心配になる。すっきりした江戸前の二枚目は、太っては駄目、三十代に入り、痩せる努力をして欲しい。

毛抜きの巳之助、三階の花道を上から見下ろす席であったので、七三で、決まったところで、巳之助の横顔を見たが、その横顔は、父三津五郎によく似ていて、驚いた。父の三津五郎が花形時代は、美男で売ったのに、なんで息子の巳之助が、親に似ぬ、馬面の目だけがギョロっとしたブス顔なんだと、これまで思っていたが、メイク次第では、この先何とかなるのはないかと思った。

粂寺弾正は、白塗りの和実の役ではあるが、ベースは荒事である。他家に使者として来ながら、若衆や腰元にセクハラを仕掛けるという、おおらかな侍の色気もありながら、婚礼の相手となる姫の毛が逆立つ謎を解決し、敵役の八刃玄番の企みを防ぎ、首を刎ねるという大胆さも演じないとならない。硬軟両方を演じ分けなければならない大役だ。ただ毛抜きは、主人公は、実質弾正だけで、受けの芝居はなく、どこでどんな演技をするのか、すべて決まっていて、まさに線路の上を走る電車の運転をするようなものだろうから、自分なりの工夫は挟めない代わりに、踊りの振りのように、一つ一つ形を作り、演じていき、型をところどころで決めていけばよい。よく言われる、型どおりに演じれば、それなりに演じられてしまう役だ。だから失敗はないのだ。長身で、顔が大作りの巳之助には粂寺弾正は、うってつけで、案外ニンに会う役なのかと思った。ただ問題点、課題も多かった。顔は、白塗りなのに、ピンク系で塗りたくられていて、異様であった。このメイク有りなの?と思った。ちょっとコミカルな印象を与えて、荒事の役者とは程遠いメイクだ。でも、これでいいのかなとも思う。三津五郎や、海老蔵なら、もともと美形の顔の上に、白塗りできりっと見せ、出では笑顔も見せず、堂々と入り、座ってから、若衆や腰元に、いきなりちょっかいを出す、今なら、美少年や少女に、「今夜やらない」と、言い寄る。女色も男色の、両方味わうという、おおらかさ、柔らかさををみせて、そのあと、謎を解いていく、悪人退治の荒事の世界にはいっていくのだが、この切り替えがうまくいかず、コミカルなイメージのまま、荒事の世界に入るので、全体に可笑しみが出てしまい、荒事の世界に入っていけないのだ。もちろん見得は、大柄な身体で、きちんと決まっていて、好ましかった。一番の問題は、台詞術だ。自分の声ではない、変な所に声の中心を置いて、台詞に情も強弱も感じられず、奇妙だった。これまで、巳之助の舞台は数多く見てきたが、今日のセリフの声は、聞いたことがない声だった。何処か無理して、侍の声を作ろうとしているようで、息が抜け気味で、しまりがなく、荒事のセリフの、大音響で、ぴたりと決まる快感がないのである。見ている方としては、スカッとしない。

とは言いながら、これまで際立ったこれといった持ち役がなかった巳之助だが、鉱脈を一つ掘り当てた感じがする。今後、どうこの芝居を、親父譲りの、自分の持ち役にするかが、巳之助の成長のポイントになるだろう。

松也の四の切、一生懸命、狐忠信を演じているが、仙台猿之助のようで、勘三郎のようで、何かに似てはいるが、松也オリジナルな何かが、足りない感じがした。なんだろう。

猿之助のようなけれん味もない、鼓への深い思いも感じられない、親狐への情が薄いのだ。一方で、勘三郎のような、躍動感、メリハリ、一つ一つの演技の決めがないのだ。演技が、どんどん流れていき、止まらない。出からして、鼓を打って、チャリがって、三段から飛び出してくる、飛び出したところの決まりが綺麗でなく、だらしなく出てくるので、観客は驚きと、意外性を感じる場面だが、出が、美しく決まった形になっていないので、驚かないし、拍手を送れないのだ。30歳になったばかりの松也だが、昔見た50代を超えた猿之助や勘三郎の方が、舞台上は、若々しく見え、リズミカルで、躍動感までも感じたのに、なぜか松也には、若さが感じられない。実年齢ではなく、演技で、若く、はつらつと見せる技量がまだないもかもしれない。

親狐への情が薄いので、狐の哀れさも演じきれないし、観る側も、狐忠信に対する哀れみも感じない。本物の忠信の方は、きちっと演じていて、余裕も感じられた。美形を売れる芝居が、松也の生命線だろうか、松也ファンとしては、一層の努力を求めたい。新悟の静はよかった。正直に言って美形の女形ではないし、これから先、どんな女形をめざすのか、試行錯誤だったと思うが、舞台上の身の置き場がきちっとしていて、まったく違和感がない、新悟は、腕を上げたと思った。そう思った途端、美形ではないことが、全く気にならず、狐忠信へ切り付ける形も決まり、狐忠信への愛情も垣間見せ、堂々の静に見えたから不思議だ。まさに歌舞伎マジックだ。

1月27日(水) 『国立劇場初春歌舞伎、小春穏沖津白浪』

 千秋楽の国立劇場の初春狂言を観た。このところ国立劇場の正月公演は、菊五郎劇団の芝居で、復活狂言が多かったが、今年は、河竹黙阿弥生誕200年となることから、小春穏沖津白浪が再演されることになった。初演は、元治元年1864年、江戸市村座だった。小春穏沖津白浪は、平成14年に138年振りの復活狂言として国立劇場で公演が行われ、好評だったと言う事で、14年ぶりに、再演となったものだと聞いた。私は、前回の公演をみたが、面白かったという印象は持っていない。こんな芝居を、復活狂言として、やる意味がよく分からなかった。14年前に観た印象では、よくある御家騒動ものだが、だからと言って、筋立ては特になく、悪く言えば、筋はいい加減で、ストーリーが面白いのではなく、その幕その幕の舞台装置と役者の演技というより役者を見せることが大切で、まさに菊五郎という当代の大役者を見せる芝居だったと記憶している。14年前に感じた事を追加すると。馬鹿馬鹿しいけど、舞台は豪華で、季節ががらりと変わる驚き、そして立ち回りもあって、正月の時間潰しには絶好な、正月らしい芝居だなと思った。

 さて、今回は主役の子狐礼三が、菊五郎から菊之助にチェンジ、菊五郎が、日本駄右衛門に回った。親が元気なのは、子供にとっては、大変ありがたいことだ。なお、松緑は、今回出ていない。

 お家の重宝、「胡蝶の香合」紛失をめぐる、大名月本家の御家争いを背景に、なぜか狐の妖術を使う小狐礼三、盗賊の頭目日本駄右衛門、女盗賊船玉お才の3人が、三人吉佐のように出会い、実は実は、の連続で、日本駄右衛門の主筋が月本家で、駄右衛門と船玉お才の母親同士が姉妹で、二人はいとこ同士となり、協力して香合を奪い、月本家を助けるという荒筋だ。結局悪役一味は滅亡し、最後は目出度しめでたしになるのだが、3人のキャラクターは、白浪ものだから、それぞれ立ててあるが、香合の奪取に、密接に絡んでいかない。礼三だけは、女にも化ける美男の設定、しかも狐の刺青をしょっていて、狐の妖術も使えるという設定。お嬢吉さにも、菊之助にも似た役柄だ。所詮この芝居は、筋はどうでもよく、役者を見る芝居なのだと、今回も痛感した。その場その場は、上野清水神社の金ぴかな豪華で大掛かりな舞台、雪も降り、桜も散り、舞台を回すことなく、舞台上で、月雪花と、見事に変わる舞台、赤坂日枝神社の赤い鳥居を生かした大立ち回り、時代物、世話物をミックスした舞台、まあ一言で言えば、その場その場の見どころ満載で、その時間その時間の舞台は、充実はしているが、観終わればそれでお仕舞、舞台が終わって、芸術的感慨に耽るというものではない、瞬間瞬間が大事な芝居なのだという事が分かる。最後は、香合が、月本家に戻り、めでたしめでたし、高輪の浜には富士山が見え、そこに初日の出が昇り、お正月気分を感じさせて、それでお仕舞である。まあ、正月の芝居は、これでいいのだと思う。正月気分を満喫させえくれれば、それでいいのだ。気分よく帰宅できる、おめでたい舞台が、今年も、国立劇場で行われた。それで十分なのだろう。立ち回りあり、だんまりあり、正月の時間潰しとしては、見事な正月芝居だと思った

菊五郎、時蔵は、出てくるが、しどころがなく、気の毒。売り出しの花形女形の梅枝が、バカ若様役だけ、元がうりざね顔の綺麗な顔立ちだから、傾城に心を奪われる若様役は、ぴったりだが、これもしどころがなく、可愛そう。亀蔵の敵役は、憎々しく立派、でも、しどころがなく、しかもあっさりと殺されてしまって、何で?という思いを持つ。悪人一味も、登場するが、悪を張り巡らせることなく、一旦は香合を我が物にするが、中間が、途中で、狐にたぶらかされて、取られてしまうのもなんだかおかしい。悪が立たないからつまらないのだ。萬次郎の傾城深雪は、いきなり本物の傾城が出てきて、びっくり、いつもながらうまい役者だ。

鈴木桂一郎アナウンス事務所

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