8月21日(土) 「歌舞伎8月、3部吉野山、4部与話情浮名横櫛」

今月1日から再開された歌舞伎座の8月公演、三部と四部を観た。開幕前のざわめきが全く聞こえない、しーんと静まり返った、静寂の開幕前に、どことなく緊張感が漂っていた。

三部は、義経千本桜の吉野山。道行の舞踊劇である。道行は、普通、愛し合う二人がでてくるが、吉野山は、静御前と義経の家来の佐藤忠信の道行である。

佐藤忠信を猿之助、静御前は七之助、逸見藤太を猿弥が務めた。清元と竹本とのかけあい。七之助の静御前は、奇麗で凛とした顔で花道から登場した。でもどこか無表情で、川連法眼館に匿われている義経に会うために、訪ねている途中なのに、義経に会いたい、会いたくて仕方がないところだろうが、そうした気持ちが全く七之助から感じられない。舞踊劇は、踊りで感情を見せ、表情では感情は出さないのかもしれないが、七之助の、怜悧な美しさは、どこか無表情で、義経への愛情が感じられなかった。

猿之助の忠信は、清元と竹本の掛け合いの中、自在に行き来していて、特に竹本の時の力強さが印象に残った。清元の時には、優美で柔らかく、静御前とできているのではないかと勘ぐるほどで、竹本の時には、踊りがシャープで、糸に乗って力強く、この変化が面白く感じられた。静御前と同道している忠信は、じつは狐で、所々で狐に見える所作を織り込んであり、楽しく観た。猿之助の身体は全身がバネのようで、ジャンプ力があり、動きがきびきびして歌舞伎役者の身体能力の高さに驚いた。静御前が花道を下がった後の、忠信の引っ込み、蝶に戯れると、白地に狐火の衣装にぶっ返ると、ここはもう狐である事を顕わにして、花道を力強く入っていった。テレビドラマ、半沢直樹で、猿之助が悪役を演じて、面白かったが、今度は、猿之助に、歌舞伎座で静御前を演じて欲しいと思った。

四部は、余話情浮名横櫛(源氏店)。与三郎を幸四郎、お富を児太郎、番頭富八を亀蔵、多左衛門を中車、蝙蝠安を弥十郎。

幸四郎の与三郎が素晴らしかった。何時もは蝙蝠安と一諸に花道から出るが、今回は先に蝙蝠安が出て、後から与三郎が追いつくのだが、沈んだ気分で、おっとりとした足取りが柔らかくて、靜かな佇まいがあり、生き別れになったお富と偶然に会う、この後のドラマが楽しみになった。

これまでいろいろな役者の与三郎を見てきたが、この先、歌舞伎を代表する与三郎役者になるだろうと思った。まず第一に奇麗な与三郎だった。体に三十四個所の刀傷があり、手ぬぐいでほっかぶりした顔が、生来のやくざ者ではなく、どことなくおっとりとした佇まいで、大店の跡取りらしく、寂しさをたたえながら、凛として優しい横顔なのだ。その美しい顔を、左頬の、✖印の刀傷が、より一層幸四郎の美貌を引き立てるから不思議だ。第二に、お富と気が付いた時も、大袈裟に驚かないのが良い。強く驚けば、怒りを一気に燃やしてしまわねばならない。ここにいるのは、本当に死んだと思ったお富なのか、目と心で確認する戸惑いがあれば十分だ。そのうちに、俺と言う人がいるのに、妾になってぬくぬく生活しているのは、一体どうしたことだと、怒りをどうお富にぶつけようかと思案する気持ちが沸沸とわいてくるのだと思う。幸四郎の与三郎は、この怒りを、冷静に心に仕舞っている感じがした。だからこそ、「御新造さんへ、やさお富、久し振りだな」の怒りの爆発につながるのだと思う。「しがねえ恋の情けが仇」からは、大袈裟にうたい上げず、淡々としているようで、お富への怒りがふつふつと沸いていて、激情を秘めた与三郎の心が良く出たと思う。

余話情浮名横櫛は、美男美女が織りなすドラマなので、役者は最低でも、美男美女に見えないといけない。幸四郎は美しいのだが、お富役の児太郎が奇麗に見えないのが残念だった。児太郎は、まだ芸で美しく見せるまでいっていないのだろう。これでは芝居の展開の興味半減である。江戸時代から観客は美しい役者が好きなのだ。今でもそうだと思う。美しく見えるように芸に励んでほしいものだ。児太郎は、番頭藤八とのやり取りの場面では、誰を真似たのか分からないが、甘ったるい、緩い声を頭の上から出していて、微妙な感じがした。もっと普通にセリフを言えばいいのにと思うのだが、悪婆挑戦と言う工夫だったのだろうか、私には意図が分からなかった。

番頭に白粉を塗る場面、ソーシャルディスタンスを取ると言って、指揮棒のようなもので、紅を藤七に付けるのだが、コロナウイルス禍、これはまだ洒落で許せる。しかし舞台の最後に、お富と与三郎が抱き合うシーンは、手ぬぐいで、距離を取り合って抱き合うという趣向になった。ソーシャルディスタンスと言う、捨て台詞があったが、これは笑えない。洒落にならない終わり方で、芝居が最後は、コメディになってしまった。