9月8日(土)『歌舞伎座秀山祭九月、夜の部、松寿操り三番叟、俊寛、幽玄』
秀山祭の夜の部は、松寿操り三番叟、俊寛、幽玄の三本立て。注目は、吉右衛門の俊寛だ。
俊寛は、吉右衛門の当たり芸である。何度も見ている吉右衛門の俊寛だが、その度感動してきた。孤島に流された俊寛の、複雑な心の動きが、吉右衛門の芸を通じて、くきりと見て取れ、心を打つ。
俊寛は、平家打倒の陰謀が露見したため、平家に捕縛され、なんとか命は助けられたものの、鬼界ケ島に流されている。流されてすでに3年、俊寛は、赦免されて京に戻る事を夢見ているが、諦めの気持ちのまま、喜びも、楽しさもない、変化のない、老いの日々を送っている。その俊寛の身に起こった、激動の一日の出来事を、同時進行形で、舞台は進んで行く。
舞台下手の岩陰から姿を現した俊寛。目的意識がない虚ろな目、表情のないやつれた顔、足取りはよろよろと浜辺を歩む瞬間。この出だけで、諦めの中、変化のない、惰性の日々を送る流浪の俊寛が視覚的に分かり、俊寛の心が、私の心に飛び込んでくる。これが吉右衛門の芸なのだと思う。
その俊寛に、一緒に流されている平判官康頼、丹波少将成経が訪ねて来て、成経と海女千鳥が結婚する事になったと報告する。この瞬間、俊寛は、久しぶりに愛の存在を確認して喜ぶ。無表情な俊寛の顔が、笑顔に変わる。この切り替えがうまい。
そこに赦免船らしき船が海上に姿を現す。船に気が付いた俊寛は、船を指さし、すでに京に戻れると大喜び。この瞬間に、成経と海女との結婚の喜びはもう心の外、自分が赦免される喜びに、エキサイトしてしまう。瞬間的に、刹那的に切り替わる、老人の心の動きが露わになる。吉右衛門の芸の確かさに唸る。
赦免船が到着すると、俊寛は、二人を押しのけて、前に進む。船から上使の瀬尾太郎兼康が降りて来て、康頼と成経の二人は赦免されるが、俊寛は赦免されないと伝える。赦免されると大喜びしていた俊寛は、そんなはずはないと、間違いではないのかと、赦免状を取り上げ、良く見ても自分の名前はない。俊寛は、泣き叫んで、何で自分だけ赦免されないのかと、身を投げ出して訴える。老人の同じ罪なのに不公平だと言う叫びが、まるで俊寛が狂ってしまったように感じられ、心を打つ。赦免されると言う喜びが、絶望に切り替わる心の変化を、吉右衛門が台詞と、体の動きで表わす。この辺りを、自然に出すところが吉右衛門のうまさだ。
そこに白塗りの丹左衛門基康が登場し、実は俊寛も赦免されていると話す。今度は、俊寛、悲観の頂点から、喜びの絶頂へと切り替わり、転げ回って喜ぶ。このあたりの老人の、動物的な喜怒哀楽を、吉右衛門はストレートに伝える。
愈々赦免船は出向の時を迎える。俊寛ら流されていた三人と海女の四人が、船に乗ろうとすると、瀬尾は許さない。船に乗れるのは3人で、四人は駄目だと断固拒絶する。更に、瀬尾は憎々しげに、俊寛の女房は、清盛に殺され、首は四条河原に晒されたと伝える。俊寛は、この一言で、喜びの絶頂から、ジェットコースターのように、悲しみのどん底に突き落とされる。許されて本土に戻されても、妻と生活する楽しみはなくなり、絶望感に茫然自失する。この心の変化が、技巧的でなく、自然に感じられるのが、吉右衛門の腕だ。
海岸に残された海女千鳥は、悲しみにくれ、自殺しようとするが、俊寛は、舟から降りて、自分が島に残り、千鳥を船に乗せようとするが、瀬尾が拒んだため、瀬尾を殺してしまう。
自分の妻は清盛に殺され、俊寛は、自分が京都に戻っても、妻に会える訳ではなくなった。この絶望感から、瞬間は、自分が島に残り、海女と成経の愛を実らせることを決意する。この諦念の表情が、吉右衛門は素晴らしい。
千鳥の仮の父親として、娘の幸せを優先し、瀬尾を殺し、自分で島に残る事を決めた俊寛だが、いざ舟が出る段になると、砂浜に置かれた綱が、海へとと引っ張られていくと、思わず綱を握り、引っ張る。「俺を残さないでくれ」と、一瞬心が乱れて迷う俊寛。高い位についていた高僧であっても、普通の人間だ。この俊寛の心の動きを、吉右衛門が、自然に演じていた。
最後岩の上で、舟を見送る場面では、吉右衛門は、もう声を発せず、瞼を閉じず、じっと舟を見つめ続ける。この場面、俊寛を演じる役者によって演技が変わるが、吉右衛門の今回の舞台は、凡夫を超えた諦念の気持ちが強く出ていたと思う。
老人の瞬間瞬間の心の動きがストレートに伝わり、吉右衛門の芸の素晴らしさを、堪能した一幕だった。
瀬尾太郎兼康は又五郎が演じた。セリフ回しが憎々しく、俊寛を追い詰めていくが、いかにも悪役然とした演技は、手強く迫力があった。ただ、瀬尾太郎兼康は、あくまで清盛には忠義の人で、瀬尾にとって俊寛は、清盛に弓引く裏切もので、許しがたい存在である事を、忘れてはいけない。瀬尾は忠義の人でもあるのだ。この辺りを演技に入れて行かないと、ただ憎々しいだけでは、駄目じゃないかと思った。
松寿操り三番叟は、役者が操り人形となって踊る趣向。幸四郎の整った顔に、人形のメイクが良く乗って綺麗。人形だから当たり前だが、顔色一つ変えず、関節や顔をブラブラさせて、さも人形らしく踊っていた。幸四郎の三番叟は何度も見たので、安定感があり、歌舞伎役者の芸と技の多様性に驚く。人形が倒れているのに、後見が糸を上げると、人形がぴたりと手や足を上げる。このあたり息があっていて、見えない人形が、よくタイミングが合わせられるものだと感心した。
最後は玉三郎の、幽玄。鼓童の太鼓が、歌舞伎座の舞台一杯に炸裂する。能と鼓童の太鼓と玉三郎の競演、耳をつんざく大量の太鼓の音に圧倒されて、玉三郎は霞んでしまったと私は、思った。能には大鼓、小鼓が使われるが、同じ太鼓でも、鼓童の打つ太鼓とは、全く違う存在であり、私は違和感があった。新しい芸術なのだろうが、私の感性では分からず、歌舞伎座の演目として出す必要があるのか、疑問を持った。玉三郎の芸術なのだろうが、私はついていけない。時代に取り残されていくのだろうか。
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