2016年11月30日(水)『能を見る。北浪貴裕の融』

 北浪貴裕さんの能の公演に行った。会場は、渋谷のセルリアンタワー能楽堂、演目は、岡久広の隅田川、そして北浪貴裕の融が上演された。

 隅田川は、隅田川まで、我が子を探しに来た女が、1年前に人買いに捨てられ子供が死んだと聞かされ、我が子だと思い、墓場まで行くと、念仏を唱える母親の前に、亡くなった我が子の霊が表れ、互いに声を掛け合うが、すれ違い、明け方には、草の生い茂る墓前には、母親の姿しかなかった、という内容だ。能を観て、何となく、こんなストーリーであるということ位しか分からなかった。

狂言は、柿山伏。山伏が柿を盗んで食べるまでが面白い。結局、見つかって怒られるのだが、柿を盗んでいるのは、猿だとか、烏だとか言われると、尻を掻いたりして誤魔化そうとするが、結局ばれてしまう。特に、芸術性はなく、言葉、仕草の面白さで、十分だった。

最後に、北浪さんの、融を見た。融は、光源氏のモデルになった貴族である。旅の僧が、六条河原院に着くと、桶を下げた老人がやってきて、ここはかつて融が、酒宴を催した場所だという。老人は、桶に水を汲むと、姿を消す。すると、融の亡霊が月光の中で、貴族の姿で現れ、優雅に舞い、月の都に帰っていくというストーリーである。私は、能は門外漢で、批評はできないが、美しい衣装で舞う貴公子の姿を見ていると、光源氏は、こうした舞で、女心をつかみ、女色にのめり込んでいったのかと思ったし、光源氏が亡くなり、時が流れれば、夢となってしまう儚さを感じた。光源氏が、今の世に、亡霊となって目の前に表れ、舞を舞っている幻想に晒された。