2016年9月21日(水)『秀山祭九月大歌舞伎、吉右衛門の一條大蔵譚』

 BS深夜を控えた、今日、秀山祭九月大歌舞伎の昼の部と、クイーンの武道館ライブに行った。

今月の昼の部は、見たい演目は、吉右衛門の一條大蔵譚だけだったので、疲れを考慮して、染五郎の碁盤忠信、又五郎と錦之助の太刀盗人は、パスした。

一條大蔵譚の吉右衛門の長成は、吉右衛門で、何度か見た中で、一番大蔵卿の人物造形が、面白かった。これまで吉右衛門の大蔵卿は、芯は強く、源氏の興隆を願う貴族だが、平家を騙すため、阿呆の真似をして、作り阿呆になって、平家を欺いて来た。阿呆は方便、本来は源氏ビイキの作り阿呆と思っていた。しかし、今回吉右衛門が造形した長成は、元々歌舞音曲に狂う、政治には無関心な公卿で、心のどこかで、源氏の興隆を願う人物なのだが、元々は阿呆なのだ、という人物設定に見えた。門から出る際の阿呆ぶりが、顔を少し曲げて、口を斜めに少し開けた表情が、とても作り阿呆に見えず、真の阿呆に見えた。勘三郎は、自分の役者としての存在感で、阿呆ぶりを見せた、勘三郎には、長成のニンが確かにあったと思う。一方の吉右衛門は、これまで、顔で阿呆をリアルに見せてきたが、吉右衛門の役者としての存在、時代物役者の、中でも時代物のスーパーヒーローを見慣れているので、顔は阿呆でも、どこか武ばっていて、阿呆に無理に見せているという印象を持っていた。阿呆に見えるのは顔だけで、首から下は、実は鎧を身に着けているように見えていた。あくまで顔で阿呆を演じているだけで、本当は、反平家の立派な武人、戦闘的公卿なんだというイメージが強すぎた。つまりは、こうした腹が見え過ぎて、心からの阿呆には、到底見えなかったのだ。それが今回は、顔で見せる阿呆さだけでなく、体の動き、動作、しゃべり方、すべてが、作り物の阿呆ではなく、真の阿呆に見えた。もう、長成は、元々の阿呆なんだと、思わせる演技となっていた。

阿呆をやめ、源氏贔屓の、きりっとした長成になっても、阿呆から源氏贔屓の貴族に変わっても、人格が、二重人格のように、がらっとかわったのではなく、武ばった面を、できるだけ見せないで、ただの源氏贔屓の公卿という見せ方をしている。阿呆から武骨ものの公卿に、大転換し、再び阿呆に戻る、その変化を楽しむこの演目。造り阿呆が、本当の阿呆に見えて、阿呆の内からちらちら見えていた武骨で、忠義物の公卿という面を一切消えて、同じ人物が、上下に大きく性格が、変わるのではなく、ごく自然に、右から左に、性格が、ナチュラルに変わる人物造形に見えた。その分阿呆ぶりの振り幅が大きく、来市右衛門の阿呆ぶりを楽しく見せてもらえたと思う。

もう一つ、吉右衛門が、作り阿呆の顔を止めたとたんに、作らなくても、気品のある源氏再興を願う、高貴な人物になってしまうのに驚いた。芸と言う物は、素晴しいと言う事を痛感し、見とれてしまった。

今回の長成は、前回まで、阿呆になった時に、ちらちら見えてしまった吉右衛門の時代物役者としての顔を、見事消し去ったので、吉右衛門の阿呆ぶりを、心から楽しめた舞台だったと思う。