2016年2月24日(水)『歌舞伎座2月夜の部、新書太閤記』

歌舞伎座2月興行の昼の部に行く。千秋楽が26日だから、一ケ月の公演も、いよいろ最後に来ている。出演者の疲れもピークになるところだが、新書太閤記の主役、藤吉郎役の菊五郎は、若く、元気で、溌剌として、しかも軽く演技していた。まあ、重く演じる役ではないから、菊五郎が好きなように演じていたのだと思う。吉川英治が、戦争中、読売新聞に掲載した新聞小説で、その後刊行された大衆娯楽小説の歌舞伎版で、すぐに、先代の六代目の菊五郎が戦争中に、歌舞伎化した新作歌舞伎である。これまでにも亡くなった勘三郎が演じたが、当代菊五郎の猿、藤吉郎は、初めて観た。

1942年生まれ、73歳の菊五郎が、十代の藤吉郎を演じても、違和感がまったくない。これが役者だ。衣装や、頬を赤に染めたメイクは、勿論若く見えるように工夫しているが、はつらつと、元気に、若々しい足取りで、舞台を歩き回るから、若く見えるのだ。。猿と呼ばれた若い藤吉郎は、きっと、ちょこまか歩いているだろうから、役になり切っているわけだ。段々出世していくと、歩幅が大きくなり、悠然と歩くようになるが、それでも、歩幅は大きくせず、若き日の独楽鼠ならぬ、猿のイメージを引っ張っていて、大げさに、差をつけていて、菊五郎の工夫が分かる。新作歌舞伎で、義太夫もなく、歌舞伎という、重々しい感じは全くなく、大衆娯楽劇のように、展開は、アップテンポで、快調に進んでいく。このあたり、歌舞伎らしさに欠けると考えれば、その通りで、軽過ぎて、思い入れ、ミエもなく、糸に乗った演技はまったくなく、義太夫味は全くない。まあ、誰でも知っている、のちの豊臣秀吉になる、若き藤吉郎の出世物語であるから、猿の、良く知られている才気を繰り出す場面が、次から次へと、舞台に登場して、飽きさせない。ただ、一つ一つのエピソードは、簡潔にまとめられて。テンポはあるが、おなじみのシーンが、次々に出てくるだけで、それぞれの連続性は、感じられず単発である。その幕ごとの、藤吉郎の才智は出てきて活躍するのだが、全幕通して、信長の家臣としての、藤吉郎の成長振りが見えるかと言うと、それは見えない。前田利家との、友情物語も、連続性がないし、二人の交流も描かれないので、盛り上がらないし、終幕、信長が、光秀の謀反で、本能寺で憤死するが、この際の悲しみも、舞台を通して、信長との関係が描かれず、ただ才智を褒められたり、認められたりするだけで、信長の死に際しての、涙も、怒りも、光秀を倒す決意をする所も、毛利家との交渉も盛り上がらない。結局、芝居の最大の見せ場が、馬に乗った秀吉が、いわゆる中国大返しで、舞台七三で、大みえを切るだけでは、寂し過ぎると思った。  

菊五郎の若さに、引っ張られて、前田利家役の歌六が、明るい衣装もあって、異様に若く演じていて懐の深さを感じた。吉右衛門のところで、腕前を上げた。老け役が多い歌六だが、まだまだ若い役も、十分演じられるのが分かった。ニンに全く合わないと思った梅玉の信長も、菊五郎に合わせて、信長を、楽に演じて、信長の短気ぶりを、うまく見せて、手強く、思わぬ存在感を発揮して、驚いた。顔の髭が、信長像からそのまま引っ張ったように、左右に伸び、白銀の鎧の胴の色合いもよく似合い、堂々たる信長であった。梅玉の、いつまでも若く、二枚目の青年の役は、もう若手に譲り、梅玉の本来持つ、暗い暗黒部分を引っ張っていったら、梅玉は、より一層大きな役者になると思った。吉右衛門が、光秀役で、少し出たが、いかにも光秀を思わせる存在感で、舞台を圧したが、菊五郎の舞台全体を覆う、軽味のなかでは、違和感を感じた。出も吉右衛門が出てくると、舞台が大きくなる。現代を代表する歌舞伎役者の存在感を観たが、この芝居には、合わない感じがした。

 大歌舞伎ではあるが、アップテンポの舞台展開で、一見大衆演劇のようにも見えた。今回の新書太閤記、菊五郎の存在感をうまく見せていたし、展開が早く、面白く、気軽に楽しめた。歌舞伎の重さは、全く感じなかったが、終わったら、芸術的な感慨はなく、それで終わりではあるが、そこそこ楽しめた。肩の凝らない芝居だった。