10月9日(金) 「歌舞伎座、十月大歌舞伎、一部、京人形。二部、双喋々曲輪日記,角力場」
歌舞伎座の10月公演を見る。今月も4部制で、一部の京人形38分、二部の角力場46分と、それぞれが短いので、歌舞伎は楽しいなと、思う瞬間に芝居が終わってしまい、寂しい限りだ。コロナ禍、歌舞伎を見られるだけでも幸せと考えないといけないが、1等席8000円は高いと思う。コロナの流行で、舞台に金をかけられないのだろうし、役者の出演料を考えれば仕方がないとは思うが、観客側からすればコスパが悪いとしか思えない。七之助丈は、「このままの状態が続けば、廃業も考えないと駄目だ」と言ったそうだが、まあ入場料で、あまり無理は言えない。歌舞伎公演があるだけ、ありがたいと思わなければならないようだ。
一部は京人形。左甚五郎を芝翫、京人形の精は七之助。七之助には、元々静かな暗さ、クールな魅力があるが、無表情な人形はまさにぴったりで、動き出さずに、あくまで人形として立っている姿が特に美しかった。左甚五郎は、彫り物職人で、女房がありながら、新吉原の遊女、小車太夫に恋して、太夫そっくりの人形を作ってしまう。その人形を見ながら酒を飲むのが好きと言う男で、谷崎潤一郎の小説、痴人の愛に出てくる中年の変人と言うか、変態気質を持った男だ。芝翫は、時代物役者で、世話物の雰囲気が薄く、おまけに左甚五郎をごく普通の職人として演技するので、変質的な職人には見えないし、癖のある腕の立つ職人に見えないのが残念だった。奥さんがいるのに、花魁に恋をして、そっくりそのままの人形を拵えて、着物を着せ、太夫を見ながら酒を酌むというのは、立派な変態である。(笑)芝翫のイメージが、どうしてもいい人なので、変人、変態とは見えないのは仕方がない所か、やはりニンにあわないのである。亀蔵なら、変態の職人を演じられるのではないかと、ふと思った。
この芝居の面白さは、人形に魂が宿って動き出し、踊ってしまうところにある。人が作った人形に魂が籠って動き出すなんてありえないが、そこはお芝居である。万物に精霊が宿ると考える日本人には、別に不思議には思わず、芝居を楽しんでしまう。まして名人の左甚五郎だ、彫ったネズミも動き出す、人形が躍ってもいいと素直に考えてしまうのは不思議なものだ。
この芝居は人形が動き出すだけでなく、更に工夫があり、小車大夫に似せて作ったので、姿形は美しい人形だが、最初は男のように動き、小車大夫が落として、甚五郎が拾って自分の物にしてしまった鏡を胸にさしてやると、急に女らしく動き、踊るというところに工夫がある。女のように踊ると言っても、そこはあくまで人形なので、文楽の人形振りのように少しぎこちなさも入れて踊るのも楽しいところだ。七之助は、人形振りで、男の動き、女の動き、男の踊り、女の踊りを、顔色一つ変えず、踊り分ける技が見事だと思った。あまり表情を変えないから、人形が躍っているように見えた。こんな人形なら、谷崎ではないが、足首を舐めてしまいたい位である。
二部は、双喋々曲輪日記から角力場。濡髪長五郎を白鴎、放駒長吉を勘九郎が演じた。濡髪は今の大相撲で言えば大関横綱クラスの関取、一方の長吉は、米屋で働く小僧、まあ駆け出しの青年で、序の口クラスの相撲取りである。この二人が、今日最後の一番で顔を合わせ、何と長吉が寄り切りで勝ってしまう。今なら大番狂わせだが、実は八百長相撲で、わざと濡髪が負けたのだ。濡髪は実は長吉に頼みたいことがあり、詳しくは書かないが、頼みを聞いて欲しいという気持ちから勝ちを譲ったのだ。
角界を背負って立つ大ベテランの濡髪と、まだ相撲を始めたばかりの放駒長吉の、相撲の世界の格の違いをどう見せるかが楽しいところだが、濡髪は、強さを表すために隈取を描いているが、黒さと青さが目立ち、怖くは見えても強くは見えないのが、どうもピンとこなかった。ただ威圧感だけは十分に感じられた。放駒に、わざと負けた事を伝える当たりでは、「左手を上げて」と何回も言い、放駒に右を差しやすくしたというのだが、放駒が何回言ってもわからず、最後はまるで脅すように言うところは、大きさがあった。放駒長吉の勘九郎は、濡髪を破り、意気揚々と場外に出たところが、いかにも青年らしく、嬉しくて嬉しくて仕方がない所をうまく演じていた。濡髪からわざと負けたと言いくるめられるところも、最初は気が付かず、徐々に、いかさまを理解し、怒り狂うのだが、怒りの爆発が、青年らしく、所々のみえも、青年の若さ、純粋さ、熱情、怒りを際立たせて良かったと思う。勘九郎二役の山崎屋与五郎も、ジャラジャラとした雰囲気がでていて、最後、茶屋の主人が濡髪のファンだというと、羽織、金、紙入れを全部あげてしまうところも、楽しく見ることが出来た。最後、花道を濡髪の衣装を、濡髪の弟子と一諸に着て、濡髪の衣装の大きさを見せる場面は、今回はなかった。
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